薄明

ごじょうさとる×ふしぐろめぐみ
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小説107件]6ページ目)

つむじ

 五条のつむじは右回りである。
 おそらくそんなことを知っている人間はそう多くはない、と伏黒は思っている。五条は規格外に大きいうえに、そもそも人のつむじなんてそうまじまじと見ることもないだろうから伏黒くらいしか知らないであろう。ひっそりとそんなことに優越感を感じているのだが、本人には当然言ったことはない。伏黒が五条に対してやる事なす事、何を言っても嬉しそうにするからきっとこれも伝えたら大層喜ぶのだろうけれど。
 さて、ここは五条の部屋であるのだが風呂から上がった五条は基本的にいつでも髪を乾かしてこない。首にタオルを掛けてドライヤー片手にやってきては「髪乾かして」なんて言ってソファに腰掛ける伏黒の足の間に座るのだ。今日も今日とてそうして床に腰掛けた五条は、仕事の愚痴を零しながらタブレット端末でもって任務の資料を見つつ伏黒に頭を預ける。
「びしょびしょじゃないですか」
「恵がやってくれるから」
「風邪ひきますよ」
 まだ若干水が滴る髪をタオルでもって包んで水気を切っていく。形のいい頭をタオル越しに手のひらで大雑把に撫でて、タオルドライを理由に一頻り好き勝手髪をかき回したらその後にドライヤーでもってしっかりと乾かしていくのだが、タオルを外して伏黒はきゅ、と口元を引き結んだ。いつもこの瞬間はちょっとだけ口が緩みそうになる。
 タオルでもみくちゃにされても、やっぱり今日も五条のつむじは右回りだった。

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うなじ
制服の下に着てるのがバンドカラーシャツって気付く前に書いたやつ

「…なに、見てんすか」
「見てないよ」
 見てるじゃないですか、と溜息を吐き出して伏黒はちらりと五条を見た。上目でこちらを見る伏黒は気付いていない。五条にしか見えていないから当然といえば当然なのだけど、伏黒のこういう鈍さが有難いと五条は笑みを深くした。
「まぁ強いて言うなら…ここ?」
 着ている制服の胸元を掴んで少し引っ張る。広い襟の下、そこから見える肌着の隙間。上から覗き込むことでしか見えないそこには真新しい歯型があった。
「っ、み、見てるじゃないですか…!」
 五条の手を払い除けた伏黒は隠すように自身の襟元を掴んだ。そのまま睨まれるが、耳の縁は赤い。そんな顔をしていたらこれから合流する虎杖と釘崎に何を言われるか分かったものでは無いが、敢えてそれは言わない。
「だって見えるし」
「だからって見ないでください…もし2人に気付かれたらどうするんですか…」
「上からじゃないと見えないし平気でしょ」
「だからって寝てる間に付けるのやめてください…何回言ったか分からないですけど」
 1度寝たらなかなか起きない伏黒は五条が歯型やらキスマークやら何やらを付けても起きない。擽ったくはあるのか嫌がるように寝返りはうつが、それでも起きない。色々と心配にはなるくらいに。
 そんな伏黒が必死に隠している制服の下にはこの歯型以外にも色々と付けられているのだが、実は伏黒が気付けていない場所が一つだけある。
「起きない恵が悪いんじゃん。噛まれたら流石に起きてよ」
「そもそも寝てる人間に噛みつかないでください」
 相変わらず視線は厳しいままだが、五条を見上げた伏黒の首の後ろ、項の下の方にもまた真新しい歯型がある。少し襟を下げたら見えるような際どい位置で、でも伏黒より背が高い五条にしか見えない位置。
「ま、次はちゃんと起きれるように頑張りましょうってことでさ」
 五条が先程見ていたのは胸元ではなくこの項だったのだが、可愛く怒っている伏黒は当然知らない。

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今際
薬指のおめぐ視点。死ネタ

「悟くん、出張終わったって!」
 ぴろん、と軽い通知の音が恵の背後で聞こえて、それから直ぐに津美紀の弾んだ声がした。どうやら通知が鳴ったのは津美紀の携帯らしい。湯が沸いたやかんの中身を急須に移しながら「へぇ」と気のない返事をする。
 何かと忙しくあちらこちらに飛び回っている五条は、今日も今日とてどこかに出張として飛んでいた。どんな仕事をしているのかは教えてくれないが、帰ってくる度にちゃんと五条自身の分も含めた3人分の土産を持ってくる。ちゃんと五条の家はあるのだろうけれど、出張が終われば1番に津美紀と恵の元へと帰ってくるのだ。
「…いや、」
 お茶の色が出るのを待ちながらふと1週間ほど前のやり取りを思い出す。行ってくるねと言った五条が伝えてくれた帰宅予定は明後日だった筈。今回は早めに切り上げるの難しいかも、とまで言っていた。
 津美紀の方を振り返って「明後日じゃなかったか」そう言いかけたところで窓の外から声がした。噂をすればなんとやら、というやつだ。
「津美紀ー!恵ー!」
「ふふ、帰ってきたよ」
 まるで全てを知っていたかのように小さく笑った津美紀は窓をちらりと見た。台所にいる恵からは見えないが、間違いなく五条がいて、近所迷惑も考えずに2人を呼んでいる。わざわざ見に行かなくても分かる。土産の入った袋を下げて大きく手を振っているのだ。ちゃんとここにいるのだと伝えるように。
「…近所迷惑だろ」
 ぶっきらぼうに言いながらも2つしか用意してなかった湯呑みをもう1つ出すのだから行動は素直だ。そんな恵を見て歩み寄ってきた津美紀が急須を取り上げる。
「悟くんね、早く恵に会いたくて頑張ったんだよ」
 少しだけ濃いめに出てしまったお茶を注ぎながら津美紀の目が言う。だから早く顔を見せてあげて、と。未だに窓の外では五条が津美紀と恵を呼んでいた。
 変な気を遣う五条はいつも津美紀から先に名前を呼ぶ。恵だけが特別になり過ぎないようにと。その少しズレた気遣いが擽ったくて、好きだった。
 仕方ないな、そう口の中で転がして窓を開け放した。窓の外にはすっかり錆び付いていつか取れてしまいそうな手すりがある。そこに体重を乗せすぎないように軽く手を乗せて、窓に片手を添えて身を乗り出した。
 案の定そこには五条がいて、恵の顔を見るなり柔らかく瞳を細めた。そのあんまりにも嬉しそうな顔ときたら。
 きっとこれも近所迷惑だけど、言わずにはいられなかった。ちゃんと五条に聞こえるようにと。
「おかえりなさい!」
 五条の頬が緩んで、無邪気に笑う。
「ただいま!」


 霞んでいく視界にはもう星の煌めきすら見えなかった。指先から感覚がなくなって、地面に触れている背中も鈍っていく。
「……夢か、」
 一瞬途切れた意識の中で見た夢は、夢らしくちぐはぐだった。走馬灯とも呼べない、ありもしない記憶だ。何故か目覚めている姉に、何故か暮らしているあの頃と変わらないおんぼろの六畳一間、そこに帰ってくる五条。呪いだなんて知りもしないような、ありもしないような、存在しない世界。
 近くで玉犬が寂しそうに泣いていた。目立った外傷は無い筈なのに動けもしないし死期が迫っているということは、なにか目に見えない呪いか毒のようなものでも貰ってしまったのかもしれない。
 情けない、そう口にしようとして、けれどもう身体はそれすら発せなくなっていた。走馬灯も幻も見ずに死ぬものだと思っていたから思っていたより猶予があって困る。後悔だとか、願いだとか、そんなものが頭を過ぎるのだ。
 最期に小さく息を吸い込んで、想う。
 あの日の一世一代の告白をどうか覚えていますように。

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さみしい2人

 ふ、と瞼を持ち上げるとタブレット端末を見つめている五条と天井が見えた。寝落ちる前、最後の記憶ではソファに凭れていた筈だったのだけど。
「おはよ」
「…また勝手に膝枕ですか」
 伏黒が寝ている間に学長からの呼び出しから戻ってきた五条の仕業らしい。五条がいない間に五条の部屋でうたた寝をするといつもこうだ。勝手に動かされても起きない自分も自分だが。
 天井の灯りが五条の白い髪を綺麗に光らせていた。まるで透けているかのように蛍光灯の光と五条とが溶け合っている。寝起きのまだ少し鈍い頭で、五条の頬に手を伸ばす。見ているものは次の仕事の資料だろうに、邪魔したらいけないと思うのに先に手が動いていた。
「…溶けそうですね」
 触れた頬には当たり前だが温度があり感触があった。
「なに?どういうこと?」
 触れてきた伏黒の手に頬を寄せながら五条が緩く笑う。直接触れた頬はちゃんと暖かくて、こうして何にも阻まれずに触れるようになったのはいつだったのだろうかと考える。出会ったばかりの頃は五条の術式により見えない薄い何かに阻まれて触れることは出来なかったはずなのに、いつの間にかそれはなくなっていた。わざわざ伏黒に会う時だけ解いているわけでもないだろうに。その意味を聞いたことは無いけれど、それがどういうことかは分かる。
「光に溶けて消えちゃいそうだなって」
「ふぅん…」
 頬を撫でていた伏黒の手を取り上げ、五条が背中を丸めて顔を寄せる。逆光で溶けていた境目が顕になった。鼻先が触れ合う距離で、五条が「これなら消えない?」と言う。人が溶けるわけなんてないのに。分かっているのに何故だか酷く安心して、こくりと頷いてから五条の首に腕を回した。苦しい体勢だろうに何も文句を言わない五条に甘える。
「ね、恵」
「なんですか」
 どんな夢を見たのか、もう記憶にはないけれど酷く寂しい気持ちだった。人肌がどうしても恋しくて、五条に触れたくて、いることを確認したくて仕方ない。本当にどんな夢をみてしまったのだろう。
「僕が死んだら恵に取り憑いてあげる。だから恵が死んじゃったら僕に取り憑いてね」
「…なんですか、それ」
「恵が寂しそうな顔してたから」
 五条の腕が伏黒にまわされ、ソファの上で不格好に抱き合う。少し苦しくて窮屈なのに、今はそれが正解な気がした。
「ちゃんと、死ぬまで取り憑いてくださいね」
 五条の背中越しに見えた天井は眩しかった。

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逢いたい

 お偉いさんの嫌がらせなのか何なのか、おそらく十中八九嫌がらせであろうが出張中にまた次の任務が押し付けられて高専に帰れない日が3週間程続いていた。出張先から次の出張先への移動時間に報告書を書いてはメールで送り付け、現場ではそう時間もかけずに始末してはまた次へ。呪霊を祓うよりは移動時間の多さに疲労が溜まっていく。とにもかくにも、あちらこちらへと飛ばされながら今日も五条は任務先の旅館で電話をしていた。
『帰りはいつになりそうなんですか?』
「明後日には一区切りと思いたい」
『こんな長い出張久しぶりですね』
 電話口で伏黒が吐息だけで笑ったのが分かった。
 基本的に祓うことに時間がかかる事なんて滅多にない。時間がかかるとしたら探し出す方で、それでもたかが知れている。1週間の出張予定があれば移動時間と観光を含めても最短で5日もあれば帰って来れるのが常だった。お互いの都合が合わずに顔を合わせられない日が何日も続くのなんて今までに何度もあった。1週間以上あったこともある。しかし何度あっても伏黒が近くにいない寂しさに慣れることはなかった。
「恵に会いたい」
 胸の内を隠すことなく吐き出せば、電話の向こうで『仕方ないじゃないですか』と窘められる。じゃあ恵は寂しくないの、とからかってもよかったが続く仕事の肉体的な疲れと精神的な疲れでそんな気にはなれなかった。
 どうせ向こうの金なんだからと取った伏黒1人では泊まれないような旅館。五条なら簡単に連れてこられるここに伏黒がいたら少しは楽しく仕事が出来るのに。昼間なら景色がいい筈の窓の外は、夜闇ですっかり何も見えなかった。
「僕お仕事頑張るからさ、帰れたら甘やかしてよ」
『いつも甘えてるじゃないですか』
「いつもよりもっと」
 駄々っ子みたいに言い募れば、溜息が電波越しに届く。いつ途切れるのか分からないことが余計に心を疲れさせる。伏黒に出会ってからすっかり五条は弱くなってしまった。寂しくてしょっちゅう電話して、会いたくて窓の外を眺めたりして、甘えたくて駄々をこねる。そんな子供みたいな恋愛をする歳でもないのに。
『…じゃあ、甘やかすんで、よそ見しないでくださいね』
 少しの間を開けて伏黒が言う。今、どんな顔をしてこれを言った?と五条の頭の中で駆け巡るが当然答えなどあるはずも無く。
 よそ見なんてするわけがないのに。道中にも、人にも、何にも。
「っ、恵、顔見せて!ビデオ通話しよ!」
『嫌ですよ』
 慌ててスマートフォンを操作しようとするが、それを待たずに五条の返事も待たずに通話が切られる。もう一度かけ直しても繋がることは無かった。今が深夜とはいえ寝たわけでもなかろうに。
一体今、どんな顔をして五条とさっきまで繋がっていた携帯電話を見つめているのだろうか。
「………はぁーーー……ほんと…」
 可愛くて困る。そう飛び出そうになった言葉はどうしても緩む口を抑える為に覆った手のひらに吸い込まれた。

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待ち合わせ
タワレココラボの時に書いたやつ

「止まってはないんでしょ?…うん、そっか。じゃあ待ってるから」
 待たせてすいません、という律儀な一言を最後に聞いて電話が終わる。久しぶりに2人で夕食でも食べようと予定を合わせてみれば、どうやら伏黒の乗る予定だった電車が遅延しているらしい。ぽっかりと空いた時間に、こんなことなら横着して現地集合にしなければよかったと少し後悔した。面倒でもちゃんと任務終わりに1度高専に帰って伏黒と一緒に出ればよかった。そうすれば遅れる電車を待つ時間を有意義に使えたのに。
 吐いた息が真っ白になる寒さの中で、五条はどこか時間を潰せる場所がないかと軽く周囲を見渡した。人の多い駅前、少し時間を潰す程度なら困ることはなさそうなくらい色々なものがある。コンビニ、ファストフード店、アパレルショップ等々。
(…そういえば最近忙しいって言ってたっけ)
 その中で目に付いたCDショップに、不意に伏黒がなかなか買いに行けてないと言っていたことを思い出す。つい1週間ほど前に発売された、伏黒がよく聴いているアーティストの新譜。
 電車の遅れは30分程だと言っていたから混んでいなければ買う時間くらいはあるだろう。そう思い立って五条は待ち合わせ場所である駅前の銅像から離れて近くにあるCDショップへと向かった。


 五条が買い物を終えて再び待ち合わせ場所へと戻った頃、伏黒から再度電話があった。最初の電話から30分ちょっと。どうやら着いたらしい。
「もしもーし。駅着いた?」
 五条の言葉に歩きながら話しているのか、僅かにぶれた言葉でもって「今着きました。すいません」と返事が来る。
「ん。ゆっくりでいいから。待ってるよ」
 この様子ならあと2分くらいでやってくるだろう。ちょっと早足で、寒さで鼻の頭と頬を赤くして、そうしてやってくるなり五条の顔を見て「すいません」なんて律儀に言うに違いない。
 黄色い袋を揺らしながら、五条は伏黒が謝る前にこのCDを渡してやろう、なんて考えた。謝る暇も与えずに渡されたこの袋にきっと伏黒は目を丸くして、すいませんなんて言うのも忘れて少し眉を下げてありがとうございます、なんて言うのだ。

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知らぬが仏

 伏黒と五条が仲がいい、というのはなんとなく察していた。2人の距離がちょっと近過ぎると思わないでもないが、どうやらかなり長い付き合いらしいので、五条の性格も相まってそういうものなのだろうと虎杖は納得していた。横に立つを通り越して最早腰を抱いている時もあるが、まぁそういうものなのだろう。触らぬ神に祟りなしという言葉を虎杖は無意識に実践していた。
 そんなある日のこと。明日行く任務のことで少し気になることがあって五条を探していた日のことだった。校内のあちらこちらを探し回ってようやっと見つけ、五条を呼ぼうとした時。
「せんせ、」
 途中まで呼んで虎杖は持ち上げた腕を下げた。そのまま気付かれないように死角になる場所へと素早く移動する。
「っぶねー…」
 五条の大きな身体の影になっていてよく見えなかったが、間違いなく伏黒がいた。何をされていたのか正確には分からないが、少し屈んで丸くなっていた五条の背中と、少し背伸びするように伸ばされた伏黒の足。おそらく、たぶん、きっと。
触らぬ神に祟りなし、そう胸の内で唱えてその場から離れた。とりあえず見なかったことにして、明日もいつもと同じように伏黒と接してやらないと、なんて考えながら。

ーーー

「なぁ、五条先生と伏黒ってマジで付き合ってんの?」
 唐突に振られた言葉に、釘崎は「今更?」と返した。これから任務に向かうというのに何を今更と、釘崎は溜息を吐き出した。どこからどう見てもただの教師と生徒でもただの古い付き合いでもなかろうに、何を見ていたのか。
「あれ、知ってた?」
「どっからどう見てもデキてんでしょ。あいつらがキスしてんのも見たことあるわよ」
「あっ、俺もこの間見た!」
 引率の五条を待ちながら、いないばっかりに話題に出されている伏黒を少しだけ可哀想に思う。釘崎がたまたま目撃したのは自販機の影だったが、五条のことだからちょっとくらいいいでしょ、なんて言って伏黒に我儘を通しているのだ。一応人並み程度には倫理観のある伏黒が乗り気になってあんな場所でキスを許すとは思えない。というか、キスで一応済んでいるのだろうか。これ以上考えるのは罪悪感が勝るので考えないが、五条のことだから釘崎が空気を読んで立ち去ったあとも何かしたかもしれない。五条はそういう男だ。
 相変わらず遅刻してくる五条を待ちながら釘崎はもう一度溜息を吐き出した。
「男の趣味が悪い」

ーーー

 伏黒はとにかく五条に甘い。口では一応形として拒否するが、少し押せば仕方ないと受け入れる。あんまりにも簡単すぎてたまに心配になるのだが、素直に受け入れる伏黒が可愛いから未だに「危機感持ちなよ」とは言えなかった。たぶん言ってしまったら、校内でちょっと口が寂しいからキスしたいと思っても出来なくなってしまう。
「…ちょっと、早く屈んでくださいよ」
 声を潜めて伏黒が言う。あまり人の来ない裏庭だとはいえ、校内で外。ぐいぐいと五条の襟を引っ張る勢いがいつもより強いのは当然のことだった。
 とにかく伏黒は五条に甘い。あんまり人気がなかったり、死角になっていたり、そういうこっそりできる場所であれば五条が「ちょっとキスしたいな」と言っても大体OKを貰えてしまう。昔からよくこっそりキスくらいはしていたから今もそれが残ってしまっているのだが、たぶん伏黒は知らない。何度か目撃されていることを。
「ちょっと、」
「ごめんごめん。…ん」
 知らない方がいい事も世の中には山ほどある。これはそのうちの一つだ。
 ちょっと照れ臭そうに顔を寄せる伏黒に、五条はこれからも言わないでおこうと決めるのであった。

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モーニングルーティン

 仕事がない日はいつも朝から気分が持ち上がる。それが伏黒も仕事の無い日となれば尚のこと。任務が無いのをいい事に暖かい布団にくるまって思う存分眠りこける伏黒を一頻り眺めて、寝癖だか元のくせっ毛なのか分からない跳ねた黒髪を好き勝手撫で回して、それでも起きない伏黒の鼻先にキスをしてから一足先にベッドから抜け出す。朝の空気でひんやりとしたフローリングに素足を冷やされながらベッドルームから抜け出してキッチンへ。
 これは五条と伏黒の休みが重なった日のルーティンだ。
 ケトルに2杯分の水を入れてスイッチを押し、2人分のマグカップにインスタントコーヒーを適当に用意する。伏黒が起き出してこないうちに用意するのがポイントだ。どんなに寝惚けていても五条が角砂糖を3個以上入れようとするとちゃんと止めるのだ。眠たげな瞳でもって「だめですよ」なんて言って。それはそれで可愛いのだが、いつもより砂糖多めの贅沢なコーヒーはこの時しか飲めないから今日は起こさないことにする。小さい鼻歌と共にトースターに食パンをセットして、2人で座るテーブルにジャムとバターを用意。
「そろそろかな」
 ここでケトルがお湯が沸いたことを教えてくれた。熱いコーヒーが完成した頃に伏黒は大体起きてくるのだ。欠伸を噛み殺して目を擦りながらベッドルームから出てきて、既に用意された朝食に舌っ足らずにありがとうございますと言うまでがコーヒーが熱いうちのお約束。そこから洗面台へ向かう足はひどくゆったりとしているが、帰ってくる頃には跳ねていた髪は気持ち程度落ち着いて足取りも少しだけしっかりしている。半分閉じられていた瞼はちゃんと開いて、舌っ足らずだった口もはっきりしてしまう。眠そうな顔に変わりはないけれど、その頃にはもうコーヒーは猫舌の伏黒が飲みやすい温度になっている。
 そしてお互い休みの朝の最後のルーティン。それは焼きたての食パンを齧りながら今日はこれから何をしようか決めること。今日の約束を決めるこの時間に五条はいつも年甲斐もなくわくわくするのだ。
「恵、おはよ」
 やっとゆっくりとベッドルームから出てきた伏黒にそう言えば、欠伸を噛み殺した伏黒が眠たそうに目を擦りながら言う。
「…はよ、ございます。…朝食も、ありがとうございます」

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そのくらいの我儘、
2020か21くらいのおめぐ誕

 昔から欲しいものを聞いても特にないと答える子だった。それでも何かないかと無理矢理聞き出して、やっと強請るものといえば食事に行きたいだのなんだのと形に残らない一度限りのものばかりであった。それは姉の津美紀に聞いても同じ答えで、失くなることをよく知っている子供たちらしいといえばらしかった。こんな仕事をしているからこそ形に残る物の虚しさも切なさも五条はよく知ってはいるが、それにしても随分と欲のない子達だと思ったものだった。
 何年経ってもそれは変わらず、今年の誕生日も伏黒の答えは1つの迷いもなく「特にありません」だった。そう返されるのは分かってはいたのだけど、しかし何度同じやり取りをしても分かったとは返せないのも例年通り。じゃあ今日が終わるまでに何か考えといてよ、と運良く今日1日任務がなく座学のみの伏黒に告げたのは今朝のことであった。
「ねぇ、決まった?」
 五条の言葉に伏黒は少しだけ口を尖らせた。
 一日の授業が終わったあとも伏黒の後ろをついて回って部屋にまで上がり込んだ五条に、伏黒は何も言わなかった。何も言われないのをいい事にずっと横に張り付いていたのだけれど、なんとなしにそのままお互い夕食を摂って風呂に入ってソファでだらけ始めても伏黒は欲しいものだけは言わなかった。伏黒が自身の分と合わせて用意してくれた砂糖多めの珈琲を啜りながらあと数時間となってしまった時計の文字盤を見る。夕食も摂ってしまったし今更どこかに食べに行くでもあるまい。決まりきらなくて後日になっても五条としては一向に構わないけれど。
「ねぇ、」
 つんと口を尖らせたままの伏黒にもう一度声をかければ、やっとこちらを向いた伏黒と目が合う。開いた口を閉じて伏黒の次の動きを待っていれば、静かに手が伸びてくる。じっと伏黒の瞳を見つめたまま伏黒のすることを見守っていればかけていたサングラスをするりと外された。途端に明るくなる視界。次に何があるのか、分からないほど初心でもないし、浅い付き合いでもない。珍しいな、と思いながらそのまま寄せられた伏黒の唇を受けとめる。慣れないことへの緊張か、やけに熱くてかさついた唇だった。
「……めずらし」
「…プレゼント、」
 目じりと耳を赤くした伏黒が言う。
「これだけで、いいです」
 手に持ったままのサングラスのテンプルを掴む手には離したくないとでも言うように少し力が込められていて、でも目線はもう五条から逸らされていた。赤い耳が、よく見える。
「キスだけ?しかも1回?」
 五条の言葉に頷く伏黒は、やはりまだ手を離さない。五条からしたら小さい手に、自分の手を重ねる。指先は少しだけ冷たかった。
 キスなんて誕生日じゃなくても、何も無い日でもあげてるのに、とは言えなかった。
「まだ時間あるよ。他には?」
 昔から欲のない子だった。それはただ欲しい物が、求めていることがないのではない。失うことを知っているからこそ、だからこそ求めることをやめたが故の無欲であった。大事なものといつまでも一緒にいられないことを、よく知っているが故の無欲だ。それは諦めとよく似ている。
「……じゃあ、」
 伏せられた伏黒の睫毛が震えた。我儘も欲の一つ、伏黒が苦手なもの。一緒にいて、くらい言ってくれてもいいのに人はいなくなることをよく知っている伏黒は言わない。言えたとしても小指の先くらいの願いしか言えないのだ。
「日付変わるまで、一緒にいてくれたら…」
 日付が変わるまであと数時間。いつまで経ってもこの子は無欲な子であった。
 そんなのいつだって言っていいのに、とは五条もよく知っているから言えなかった。けれど口に出すことは悪いことではないよ、そう言ってやればこの子はどんな顔をするのだろう。

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長い夜

 昔からあまり眠らなくても平気だった。人よりずっと少ない睡眠時間でも困ることは無かったし、1日くらいは寝なくても平気だったし、眠いと思ったこともそれほど無い。だから夜はただ退屈で長いだけの、暇を潰すのに苦労する時間でしかなかった。借りてきた映画をぼんやりと眺めて台詞を右から左に流すだけの時間も何度過ごしたか分からない。今でも夜は退屈な時間であることに変わりはないのだけど、しかし最近は少しだけ悪くないと思えるようになった。
「よく寝てる」
 高専に帰る気分になれない日、面倒な日、現場に向かうのに都合がいい時やら、寝るためだけに帰る部屋がある。その部屋のベッドに伏黒がたまに寝に来るようになったのはここ1年の話だ。特に五条に連絡もなく勝手に訪れては男2人が一緒に寝ても十分なサイズのベッドで勝手に寝ている。きっと五条がここに来ない日にも伏黒は広すぎるベッドの上で丸くなって1人で眠りこけているのだろう。お互いいつここに来るかは決めていないし、伝えることが決まりでもない。だから相変わらず夜は五条にとって退屈で長いだけの時間だが、たまにその夜に伏黒が寝ていると途端に退屈な筈の夜はそうではなくなる。
 五条と違ってよく眠る伏黒は1度熟睡するとなかなか起きない。五条が伏黒の横に潜り込んでも起きないし、飽きるまで髪を梳いても起きない。それにも飽きてやっと寝て、そして五条が起きてからやっと伏黒も起き出すのだ。
 なんとなく、伏黒とただベッドに潜り込む日はいつもより眠りが深くて長く眠れるような気がする。もしかしたら伏黒の寝たがりが移るのかもしれない、なんてことも思う。
 静かな寝息を立てる伏黒の隣に潜り込み、腕を回せば生きている温もりが五条の冷えた手のひらを暖めた。

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深爪、ダメ絶対

「ちょっと恵、なにやってんの」
「…何って、爪の手入れ…」
 五条の言葉に伏黒は素直に首を傾げた。五条の部屋で爪を切るのがいけなかったのか、とも考えるが今まで五条の部屋で伏黒が何かをして叱られたことがあっただろうか。人の沸点はどこにあるか分からないな、等と考えながら途中までしか爪にやすりをかけられていないが仕方なくソファから立ち上がった。大して物のない部屋だから大抵のものは部屋の角に置かれた少し大きめのチェストの中にある。爪やすりもそこにあった。
 しかしチェストに向かう伏黒の腕を不意に五条が掴んだ。そして指先を見るなり「うわ、思ったより短くなってる!」と叫ぶ。
「そりゃそうでしょう」
「なんで〜!?長いよりは短い方がいいけど深爪しろとは言ってない!」
「…はぁ、そうですか」
 何をそんなに嘆いているのかは分からないが、五条はすっかり短くなって柔い指先だけが触れるようになった伏黒の手を寂しそうに撫でている。その五条の手は今の伏黒より深爪しているのに。
「でも、そっちも深爪してるじゃないですか」
「僕はいいんだよ。恵の為だし」
「俺のため…?」
「傷つけないため」
 どこを、と聞く前に指を2本立てて曲げて見せた動きにようやく察する。品のないジェスチャーで五条の深爪の理由を今更知った伏黒に、声を上げて五条が笑う。かっと耳が熱を持つ。
 が、五条がそういうことなら伏黒が爪の手入れをするのだってある意味似たような理由だ。どうやら伏黒は五条との行為の最中に背中によく爪を立ててしまうらしい。らしい、というのは伏黒自身にその自覚が全くないからなのだが何故自覚がないのかは敢えて割愛する。ともかく、数日前に偶然見た五条の背中は猫の引っかき傷のようなものが見事に付いていて、爪を立てた自覚はなくとも背中に腕を回した自覚はあるので犯人が自分であるのは察してしまったのだ。だから今夜のことを見越して五条が風呂に入っている間に爪の手入れをしたわけなのだが。耳の熱が頬にも伝播して、その熱い頬を五条の指がつつく。
「そんな爪にしたら僕の背中が綺麗なままじゃん。キスマ代わりなんだから駄目だよ」
「……は…!?」
 頬をつついていた五条の指が今度は伏黒の背中を撫で上げた。伏黒が付ける傷と同じ場所を、分からせるようにゆっくりとなぞる。ぞくぞくと背筋を駆け上がるものに、伏黒の綺麗に手入れされた左手とされてない右手が震えた。
「恵、真っ赤でかわい」
 五条の指先の動きを感じながら言われたことを反芻した伏黒は更に耳に、頬に熱が集まるのを感じた。きっと首まで赤いに違いない。撫でられる感覚とは別の意味で。

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危機感

「あんたさ、少しは危機感持った方がいいわよ」
 五条を待つ教室で釘崎が唐突に言い放った。伏黒と釘崎の間に挟まれている虎杖は五条がまだやってこないのをいい事に机に突っ伏して寝ている。
「何でだよ」
 伏黒の言葉に退屈そうに頬杖をついていた釘崎はちらりとこちらを見た。すっかり見慣れてしまったあまり機嫌の宜しくない時の顔だ。眉間に皺は寄っていなくても口がへの字に曲がっていて、少なくとも上向きのテンションではない。
「自分で思ってるより、伏黒って人よりズレてんのよ。見ててウザったらしいったらないわ」
「…そうか?」
「そうよ」
 もう授業が始まる時間になって5分はすぎた。若干の遅刻は当たり前なので、あともう数分でやってくるだろう。それが分かっていながらもちゃんと授業が始まる前にはちゃんと3人揃って机に座っているのだから、律儀と言うべきか。
 釘崎の急な指摘にどうしたものかと思いながらも、五条が来ないことには授業も始まらず暇ではあるので続きを促す。
「一応聞いとくけど、どこが?」
 ふん、と鼻を鳴らして細い指を1つ立てた。
「あいつとどんだけ付き合い長いか知らないけど、普通はお互いの味の好みなんてそこまで知らない」
 2つ目を立てた。
「教師が大体どの辺でサボってるかも普通は細かく把握してない」
 3つ目。
「そんなしょっちゅう電話とかしない。3ヶ月先のスケジュールも把握してない」
 4つ目5つ目と指を立てては畳んで、それが1往復した頃。とうとう伏黒は静止するように手のひらを掲げた。続きを促してしまったことを後悔してももう遅い。
「分かった、分かったからやめてくれ…」
 伏黒にとって最早日常となっていたことは傍から見たらこんなにもおかしく映っていたのかと、いたたまれなくなる。耳がじんわりと熱を持つ。慣れとは恐ろしい。
「…んで、」
 釘崎が指折り数えていた指をまた一つだけにして、伏黒を指さした。
「パーソナルスペースが崩壊してる」
「だってさ、恵」
 語尾にハートマークでも付いているのではないかという聞き慣れた声が耳元でして、背筋が粟立つ。思わず椅子から立ち上がった拍子に大きな音が響いて、その音で虎杖が目を覚ました。咄嗟に叫ばなかったことを、誰か褒めてくれ。なんてことすら思う。
「あ、先生来た」
「おせーよ」
 釘崎の言葉が教室の片隅に落っこちた。

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こたつみかん

 みかん食べる?と聞けば起きているんだか寝ているんだか分からない声で「ん」と言った。半分寝ぼけている恵は簡単な敬語すら忘れて途端に幼くなる。ん、だなんて普段は絶対言わないのに。
「寝るなら食べてからにしなよー」
 YESの返事を貰ったことにして、こたつの上に定番よろしく置かれたみかんを一つ手に取る。悟が食べる分には適当に剥いて中の白い筋ごと二口で食べてしまうのだが、恵は丁寧に白い筋を取ってからひと房ずつ食べる。小さい口にひと房ずつみかんを放り込んでいく姿が小さい動物みたいで可愛いのだが、暖かいこたつの中で今にも寝落ちそうな恵は深く考えることもせずに悟の手から食べるから尚のこと可愛いのだ。うさぎの餌付け、のような。
 ちまちまと筋を取りながら欠伸すらせずに船を漕ぎ始めている恵を見れば、もう目は殆ど開いていない。昔からよく寝る子ではあったが、こたつの魔力とは恐ろしい。
 すっかり筋の取れて綺麗なオレンジが顕になったみかんを恵の口元に持っていく。
「あーん」
「……ん、」
「美味しい?」
 悟の問いにまたしても起きているのか寝ているのか分からない頭の揺れでもって答えてくれた。寝る子は育つ、とはよく言ったもので今年も無事にこたつに篭ってみかんの餌付けが出来て悟はひっそりと微笑んだ。
 次のもう1粒を口元へとやれば、やはり口が開くのだった。

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喧嘩

 喧嘩をした。喧嘩と呼ぶのもなんだか情けないくらい、くだらない喧嘩だ。こんなことでいらいらして怒って部屋を飛び出して、折角の休みなのに昼間から自分の部屋のベッドの上で寝転びぼんやりとしている。五条が休みを取れるなんて珍しいこと。更にその休みが伏黒と重なるなんてもっと珍しいこと。顔を合わせることは出来ても、ゆっくりした時間を過ごすことは存外難しい。そんな貴重な一日だった筈なのに。伏黒は窓から差し込む太陽の眩しさに目を閉じた。
 こんなことなら、たかが珈琲に入れる砂糖の数くらい好きにさせればよかった。毎回ばかみたいに入れるから角砂糖の減りが早いとか、健康に悪いとか、そんなのは所詮建前で本当はちょっとだけ嫉妬したのだ。伏黒が止めるのも無視して好きだからと手に取ってもらえて、伏黒だって本当に五条のことが好きだから想って言っているのに、それでも五条は角砂糖を取る。なんて小さい心なんだと呆れるが、けれど伏黒はあの角砂糖達が妬けるほど羨ましかったのだ。あの瞬間だけ、五条は伏黒よりたかが砂糖を大事にするのだから。だからちょっとだけ意地になってきつく言ってしまって、売り言葉に買い言葉。何となく今日はお互いそういうスイッチが入ってしまって、最終的には伏黒が五条の部屋を飛び出して1人で自室に戻ってきた。人の少ない廊下を足早に歩きながら頭は少しずつ冷静になって、部屋に着いた頃にはもうすっかり後悔だけが胸に残っていて。
 そして今更ごめんなさいと言って戻るにしてもタイミングも分からなくなり、今こうして貴重な休みの昼間にベッドの上でだらけている。暖かい日差しが差し込んで、外は眩しくて。なんだか虚しいな、と思いながら伏黒は1度欠伸を零した。


 ぱち、と目を覚ますと窓の外は暗くなっていた。気がついたら寝落ちていたようで、眩しかった日差しはとっくに隠れてしまっていた。もう今日も終わりが近い。結局五条と喧嘩みたいなことになって休みが終わってしまったことに、やっぱり伏黒は遅すぎる後悔をする。次なんてあるかも分からないのにこんなことで時間を浪費してしまうなんて。
「あ、起きた」
 霞む目を擦りながらベッドから身を起こすと聞き慣れた声がした。
 いつからいたのか、ベッド脇に腰掛けた五条がそこにいた。伏黒が身体を起こしたことで近付きよく見えた五条の顔はなんだか少しだけ疲れている。なんでいるんですか、とか勝手に入ってこないでください、とか言おうと思えばいくらでも出てくる筈の悪態はすっかり引っ込んでしまって、自然と零れたのは「ごめんなさい」だった。
 その言葉に目を伏せて五条が小さく笑う。
「…それはこっちの台詞だよ。なんかちょっと、ムキになっちゃった。…たかが砂糖なのにね」
 五条の腕が伸びてきて、少しの躊躇いを乗せながら伏黒を抱きしめる。本当にいつからいたのだろう。五条の身体は少しだけ冷えていた。
「ごめんね恵。折角の休みなのに台無しなことした」
 ごめんね、その言葉に気分が少しだけ上向いて軽くなる。
「ねぇ、次からはもう砂糖は3個にする。だから仲直りして」
 たかが珈琲に入れる砂糖の数程度で2人して神妙な顔をしてごめんなさいなんて言って。馬鹿みたいだ。馬鹿みたいで笑えてしまう。ああ、本当に今日は勿体ない時間の使い方をした。真面目な顔をして砂糖の数で仲直りの打診をする姿なんて、きっと他人が見たらあまりのくだらなさに指を指すだろう。でも、そのくだらなさで虚しかった今日が有意義になる。
「…なんですか、3個って」
 笑えば、五条はだってもうこんな喧嘩したくないからと言った。

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性欲

 性欲なんてない、なんて顔をしているこの子供にそれを教えたのは自分だ。普通の生き方を知らないこの子に、普通では無いことを教えこんだのだ。罪悪感がないと言えば嘘になるが、けれどこの瞬間だけは罪悪感より背徳感が勝る。ごめんね、なんて言ってもきっと意味なんてない。
「なに、言ってくれないと分かんないよ」
 五条の言葉に唇を引き結んだ伏黒が視線で訴えかける。弱々しく五条の人差し指を握る手は緊張か照れか酷く熱を持っていた。大人の誘い方なんて、この歳で知る必要のないことなのに知っている。知っているけれど羞恥が勝る。そのバランスが堪らなかった。
 伏黒の手から指を引き抜き、僅かに震える手を絡め取る。指と指が交差して、深く密着する。そのまま指の腹で甲を撫で、時折爪を立てると伏黒の目じりが赤く染まった。
「ね、教えて」
 伏黒の瞳が揺れた。涙の膜の張った瞳が揺れて、それから五条の視線から逃れるように伏せられる。
「…ごじょう、さん」
 伏黒が先生と呼ばない時は、教師と生徒という関係を逸脱したことをしたい時だ。生きるために必要なことを教える隙間に、知らなくてもいいことを刷り込まれる。こんなどうしようも無い大人を愛してしまったばかりに。ごめんね、愛してるよ。なんて言っても今更すぎて意味などないのだけど。

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