薄明
ごじょうさとる×ふしぐろめぐみ
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いま、愛の話をしよう
柊英です
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ぱちりとキッチンの電気を消して。揃いのマグカップにほんの少しはちみつを垂らしたホットミルク。それを柊羽に渡しながら向かいに腰掛ければありがとうと返される。英知と柊羽しかいない共有ルームはダイニングテーブルがある場所だけ明かりを灯されて薄暗い。とっくに壱星と壱流ははしゃぎ疲れて眠ってしまったから、余計に明かりの下にあるテーブルは2人のために切り取られたようだった。
英知が寝込んだことでずれ込んだSolidSとの打ち上げが行われたのは熱が下がってから数日後の今日だった。どこか特別な場所に行くでもなく、お互いに食べ物やら酒やらを持ち寄ってSolidSの共有ルームにおじゃましての打ち上げ。随分とはしゃいでしまったからきっと壱星も壱流も起き出してくることはないだろう。
「疲れてるのにごめんね?」
「構わないさ。さっきまであれだけ騒いだんだ、まだ眠れそうにない」
「そっか」
暖かいマグを両手で包み込んだまま少し視線を彷徨わせる。柊羽のことだから英知が何を伝えたくてこんな時間にホットミルクを入れたのか分かっているに違いないのだ。柊羽は英知が泣いた理由を察しているのだから。だからといって柊羽に促されるのを待っていてはいけないのだけど。1口含んだホットミルクは優しい甘さで英知の背中を押す。
きっと気付いてると思うけどさぁ、そう前置きを1つ。
「QUELLになれて、本当によかったって思ってるよ」
あれから数日経った。気が付けば今まで通りの日常が戻ってこようとしていて、英知も柊羽もそれこそ壱星に壱流も仕事へと再び駆け出した。それでも毎晩眠るために瞼を下ろすと真っ暗な視界いっぱいに美しいイエローグリーンのサインライトの灯りが英知を照らすのだ。360度、全ての視界が英知の瞳の色で埋め尽くされたあの空間が忘れられない。あの時間が、瞬間が忘れられない。柊羽が英知のために作った宝物のような歌を、壱星と壱流が褒めてくれた英知の歌声で、あの場で歌えたことはきっとどんな言葉でも表せない幸せだ。きっかけなんて今は小さなことで、英知は心の底からこの3人と一緒に同じ場所に立てて良かったと思うのだ。
「どんなにありがとうって言っても言い足りないくらい、本当にQUELLにしてくれてありがとうって思ってるんだ」
あの日涙に溺れてしまった言葉をゆっくりと紡いでいけば、目の前の柊羽が驚いたように目を開いて英知を見た。ユニットに入ることになったきっかけは壱流だったけれど、最初にマネージャーとして誘ったときはあんなに強引だったというのに。この寮に越してきた時に似たようなことを言った時だってこんな顔はしなかったのに、目の前の柊羽はあんまりにも驚いた顔をしていて。
改まって感謝を伝えることは少し気恥しい。けれど大事なことだ。ホットミルクをもう1口飲んで、白熱灯に照らされる柊羽の綺麗な瞳を見つめる。一体どれだけこの奇跡に感謝すればいいのか分かりやしない。
「柊羽に、イッセーにイッチーに出会えて4人でいられて本当に幸せだよ、俺。…あの時泣いちゃったのはそういうこと。ありがとうって」
最後にそう付け加えれば柊羽は視線をテーブルへと落とした。頬に長い睫毛の影が落ちる。
「……ありがとう、」
穏やかに微笑みながらそう言った柊羽の唇は少しだけ震えていた。それから瞬きと同時に音もなく静かに涙が落ちて、柊羽のマグカップへと落ちる。それは途切れることなくいくつもいくつも静かに落ちていく。どうしたの、なんて声を掛けられやしなかった。柊羽の言葉を待たなくてはいけない気がしたのだ。
やがて情けないな、とそう言って柊羽がそっと手のひらで目元を隠してしまう。
「情けなくなんてないよ」
「いや、情けないさ。…やっと、安心したんだからな」
「…安心?」
柊羽の手の隙間からはらりと涙が零れていく。そんなんじゃあせっかくのはちみつを入れたホットミルクが塩辛くなってしまう。そんなことを思った。
「英知から、QUELLでよかったと聞いて、安心したんだ」
「…そんなの、当たり前じゃない」
「それでも、英知は優しいから不安だったんだよ」
きっかけがきっかけだろう、そう言う柊羽の声は随分と小さかった。
「いくら俺が優しくても、優しさだけで大好きな仕事を辞めてまで柊羽についてこないよ」
他人への優しさだけで天職だとまで思っていた仕事を辞めたりなんかしない。柊羽でなければどんなに魅力的な仕事だろうと英知はADという仕事を選んでいたに違いなかった。けれどそれは今日までの英知がどんなに言い聞かせたって完璧には納得しなかったのだろう。だからこそ、寮に来たばかりに同じような事を言った時、柊羽はこんな顔をしなかった。頭じゃ分かっていても、心ばっかりはそう上手くいかない。理屈や理論じゃどうにもならないのだ。
目元を隠している柊羽の手を取る。零れすぎた涙でしっとりと濡れているのも構わずその手を握る。柊羽の涙がその不安をホットミルクに落としてくれているように、あの日英知が流した涙が柊羽の中の不安を少しずつ溶かしていたのだ。言葉だけじゃあ足りないものを、今こうしてお互いの涙が教えてくれる。
「柊羽だから、柊羽じゃなきゃ、俺はついてこなかったよ。俺の為に仕事を辞めてくれってプロポーズしたんだよ?もっと自信持ってよ、リーダー」
「…英知には敵わないな」
いくつも落ちていた涙は気が付けば止まっていて、それは柊羽の中で抱えていたものを溶かし切った証明だった。それに安堵して手を離そうとした英知の手をそっと握り返した柊羽は、赤くなった目尻で少し眉を下げて笑った。今度こそどうしたのと聞けばすまないと1つ謝罪の言葉。
「英知の優しさに、自惚れてしまいそうだ」
「……そんなの、」
この時零れ落ちた言葉は脳を通さずそのまま心の声が溢れたもので、言ってからその意味に気付く。その意味が分からないほどもう英知は子供ではなかったのだけど、その言葉の意味を理解したまま言葉を重ねる。すっかりホットミルクのことは頭から抜けていた。暗闇から切り取られたダイニングテーブルの上でゆっくりと温度を下げていくマグカップの中身とは反対に、お互いの手のひらは温度を上げていく。
「俺だって、一緒だよ」
____
スタジオの中を駆け回る数多のスタッフの中で頭1つ飛び出た長身、駆け回る度に揺れる茶髪はよく目に入った。誰かに呼ばれる度に明るく返事を返してはそちらに向かってまた駆けて行くその姿を、忙しそうだとどこか他人事に考える自分と、そんな彼のことを随分と楽しそうだと思って見ている自分がいた。あれだけあちこちに奔走していては疲れるだろうに、額にうっすら汗を滲ませていたって疲れた顔1つしない。それどころか彼が駆けつけた先はどこか陽が射したように明るくなった気さえするのだ。その英知の姿に柊羽はフィクションの中でしか見たことの無い一目惚れというものをしたのだと、今なら言える。
いつだかに柊羽が所属していたユニットが出演した音楽番組。それに同じく出演していた海外の女性歌手。力強いながらも美しく繊細な歌声は柊羽も随分と気に入っていて、移動車の中でもよく聴いていた。その彼女を舞台袖からじっと見つめて聴き入っている横顔に、今がチャンスなのだと思ったのをよく覚えている。ステージを照らす照明の強い灯りが、舞台袖にいる英知の瞳にも反射して瞬いていた。それにまたひとつ恋をしたのだけど、きっと英知は知らない。「とても、いい歌ですよね」柊羽がそう声を掛けた時、振り向いた英知はひどく驚いた顔をしていた。まさかあの和泉柊羽が、そう顔に書いてあるのではないかと思うほどに。その時初めて近くで、正面から英知の顔を見てそこでやっと彼はとても美しいイエローグリーンの瞳をしているのだと知ったのだ。
あの時、彼女が歌っていたのは日本語版のタイトルで、
____
「いま、愛の話をしよう」
英知の言葉に驚いたように柊羽の手のひらが1つ震えた。今夜は随分と柊羽を驚かせてばかりだ。もしかしたら瞳がぽろりと落ちてしまうかもしれない、その時はちゃんと拾ってあげないと。そんなことを考える。
「俺さぁ、この歌すごく好きなんだ。それに何かと柊羽と縁もあってね。初めて柊羽が声を掛けてくれた時に1番近くで流れてたし、俺が柊羽のことを好きになった時にも1番近くで流れてた」
びっくりしすぎだよ、柊羽の顔を見てそう笑う。
柊羽に初めて声をかけられた時、まさかあの和泉柊羽が、そう思ったのをよく覚えている。ただのスタッフに声を掛けてくる人には思わなかったし、自分が声を掛けられるとも思っていなかったのだ。あんまりにもびっくりしたものだからあの時の自分が柊羽になんて言葉を返したのかも覚えていない。ただ、初めて近くで見た柊羽の瞳はあんまりにも綺麗で澄んだ水のようだと思ったのはやけに覚えていた。
「いつから、」
「ん?」
「いつから、好きになってくれたんだ」
英知の手を握る柊羽の手に僅かに力が込められる。ああ今夜はなんて珍しい柊羽の姿ばかり見る日だろうか。英知が少しの緊張と気恥しさと共に昔話をしているように、彼も同じように少しの緊張と気恥しさを抱えながら英知の話を聞いているのだ。
「柊羽が初めて約束に遅刻した日」
親しくなって半年程経った日の冬だった。柊羽が予約してくれていた英知だけじゃとても行かないようなレストラン。そこに向かう道すがらに届いた、仕事が押してしまって遅れるから先に入っていてほしいというメッセージ。この時の英知はまだあの和泉柊羽と自分が友人だということにまだ少し気持ちがついてこず、どこかふわふわとした気持ちでいた。ただのスタッフでしかない自分が彼と友人であるということに対する優越感のようなものを感じながらも、同時に気まぐれで声を掛けられただけの、その場だけの1人なのだろうという気持ちを抱えながら。スタジオで自分を見つけては何かと声を掛けてくれて、時折メッセージなんかも寄越してくれて、時間が合えば食事にも誘ってくれる。そこに特別を見出すだけの自惚れは持ち合わせていなかった。けれど初めて待ち合わせに遅れてやってきた柊羽の姿に英知の中で気持ちが変わったのだ。
「あの時、すっごい急いで来てくれたでしょ。冬なのに汗かくくらい必死になって、急いで来てくれてさ。…だからちょっとだけ、俺って柊羽にとってそれだけの人なのかなって、思っちゃった」
肩で息をして、遅れたことを詫びる言葉すら途切れ途切れで。別にそんなに急がなくたって英知はどこかに行ったりしないのに、その必死な姿がどうしようもなく愛おしいと思ってしまった。あの和泉柊羽が、ただのスタッフの1人でしかない自分のためにこうも必死になってくれたことがどうしようもなく嬉しいと思ってしまったのだ。あの時、英知は自分がこの男の特別であったらどんなに嬉しいことかと思い、笑われたっていいから自分は彼の特別なのかもしれないなんて自惚れを感じたのだ。あの時に店内で流れていたのは偶然にも柊羽が初めて声を掛けた時と同じ、彼女の歌だった。
彼女は去年歌手を引退した。結婚を期に引退した彼女はインタビュアーにどうして引退するのかと聞かれてこう答えた。私はたった一人の愛を語る相手を見つけたの、と。
「ずっと特別だったに決まってるじゃないか」
「今なら分かるけどね。流石に当時の俺じゃそうは思えなかったよ」
柊羽の手に込められていた力が緩められて、優しく指を絡めるように繋がれる。それに応えるように英知からも指を絡ませる。気が付けばお互いの熱を分け合った手のひらは溶け合うように同じ温度になっていた。
かたや誰もが知っている有名人、かたやただのAD。生きている場所すら違いすぎて自分が柊羽の特別だったらなんて思い込むことは出来ても信じることは出来やしなかった。これもきっと、今日までの柊羽がどんなに英知に言い聞かせたって納得なんてしやしなかったのだろう。今この瞬間、積み重ねてきた時間があるからこそ、信じることが出来るのだ。
「今は、ちゃんと英知に伝わっているか?」
「そりゃもう、勘弁してってくらいに」
「それはよかった。頑張った甲斐があったな」
美しい水色の瞳が英知を映していた。ようやっと柊羽の瞳に込められた意味を素直に受け止めて受け入れることができる。きっと今の自分も同じように堪えきれない想いが乗っかっているのだろう。
「そういえば話が脱線しちゃったね。…ねぇ、俺も柊羽の気持ちに自惚れていいかな」
柊羽が肩を揺らして当たり前だろうと笑う。それに良かったと笑えば繋いでいない方の手がそっと英知に伸びる。頬を滑る柊羽の手のひらに目を細めれば頭の片隅に彼女の歌が流れ出す。きっと柊羽の頭でも同じように彼女の歌が流れているのだろう。マグカップの中のホットミルクはもうとっくに冷め切っていて、けれど今の英知には丁度いいに違いない。
いま、愛の話をしよう。そうして愛を語り合ったら最後はそっとキスをしよう。彼女は最後にそう歌っていた。
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2026.01.09 03:12:10
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ぱちりとキッチンの電気を消して。揃いのマグカップにほんの少しはちみつを垂らしたホットミルク。それを柊羽に渡しながら向かいに腰掛ければありがとうと返される。英知と柊羽しかいない共有ルームはダイニングテーブルがある場所だけ明かりを灯されて薄暗い。とっくに壱星と壱流ははしゃぎ疲れて眠ってしまったから、余計に明かりの下にあるテーブルは2人のために切り取られたようだった。
英知が寝込んだことでずれ込んだSolidSとの打ち上げが行われたのは熱が下がってから数日後の今日だった。どこか特別な場所に行くでもなく、お互いに食べ物やら酒やらを持ち寄ってSolidSの共有ルームにおじゃましての打ち上げ。随分とはしゃいでしまったからきっと壱星も壱流も起き出してくることはないだろう。
「疲れてるのにごめんね?」
「構わないさ。さっきまであれだけ騒いだんだ、まだ眠れそうにない」
「そっか」
暖かいマグを両手で包み込んだまま少し視線を彷徨わせる。柊羽のことだから英知が何を伝えたくてこんな時間にホットミルクを入れたのか分かっているに違いないのだ。柊羽は英知が泣いた理由を察しているのだから。だからといって柊羽に促されるのを待っていてはいけないのだけど。1口含んだホットミルクは優しい甘さで英知の背中を押す。
きっと気付いてると思うけどさぁ、そう前置きを1つ。
「QUELLになれて、本当によかったって思ってるよ」
あれから数日経った。気が付けば今まで通りの日常が戻ってこようとしていて、英知も柊羽もそれこそ壱星に壱流も仕事へと再び駆け出した。それでも毎晩眠るために瞼を下ろすと真っ暗な視界いっぱいに美しいイエローグリーンのサインライトの灯りが英知を照らすのだ。360度、全ての視界が英知の瞳の色で埋め尽くされたあの空間が忘れられない。あの時間が、瞬間が忘れられない。柊羽が英知のために作った宝物のような歌を、壱星と壱流が褒めてくれた英知の歌声で、あの場で歌えたことはきっとどんな言葉でも表せない幸せだ。きっかけなんて今は小さなことで、英知は心の底からこの3人と一緒に同じ場所に立てて良かったと思うのだ。
「どんなにありがとうって言っても言い足りないくらい、本当にQUELLにしてくれてありがとうって思ってるんだ」
あの日涙に溺れてしまった言葉をゆっくりと紡いでいけば、目の前の柊羽が驚いたように目を開いて英知を見た。ユニットに入ることになったきっかけは壱流だったけれど、最初にマネージャーとして誘ったときはあんなに強引だったというのに。この寮に越してきた時に似たようなことを言った時だってこんな顔はしなかったのに、目の前の柊羽はあんまりにも驚いた顔をしていて。
改まって感謝を伝えることは少し気恥しい。けれど大事なことだ。ホットミルクをもう1口飲んで、白熱灯に照らされる柊羽の綺麗な瞳を見つめる。一体どれだけこの奇跡に感謝すればいいのか分かりやしない。
「柊羽に、イッセーにイッチーに出会えて4人でいられて本当に幸せだよ、俺。…あの時泣いちゃったのはそういうこと。ありがとうって」
最後にそう付け加えれば柊羽は視線をテーブルへと落とした。頬に長い睫毛の影が落ちる。
「……ありがとう、」
穏やかに微笑みながらそう言った柊羽の唇は少しだけ震えていた。それから瞬きと同時に音もなく静かに涙が落ちて、柊羽のマグカップへと落ちる。それは途切れることなくいくつもいくつも静かに落ちていく。どうしたの、なんて声を掛けられやしなかった。柊羽の言葉を待たなくてはいけない気がしたのだ。
やがて情けないな、とそう言って柊羽がそっと手のひらで目元を隠してしまう。
「情けなくなんてないよ」
「いや、情けないさ。…やっと、安心したんだからな」
「…安心?」
柊羽の手の隙間からはらりと涙が零れていく。そんなんじゃあせっかくのはちみつを入れたホットミルクが塩辛くなってしまう。そんなことを思った。
「英知から、QUELLでよかったと聞いて、安心したんだ」
「…そんなの、当たり前じゃない」
「それでも、英知は優しいから不安だったんだよ」
きっかけがきっかけだろう、そう言う柊羽の声は随分と小さかった。
「いくら俺が優しくても、優しさだけで大好きな仕事を辞めてまで柊羽についてこないよ」
他人への優しさだけで天職だとまで思っていた仕事を辞めたりなんかしない。柊羽でなければどんなに魅力的な仕事だろうと英知はADという仕事を選んでいたに違いなかった。けれどそれは今日までの英知がどんなに言い聞かせたって完璧には納得しなかったのだろう。だからこそ、寮に来たばかりに同じような事を言った時、柊羽はこんな顔をしなかった。頭じゃ分かっていても、心ばっかりはそう上手くいかない。理屈や理論じゃどうにもならないのだ。
目元を隠している柊羽の手を取る。零れすぎた涙でしっとりと濡れているのも構わずその手を握る。柊羽の涙がその不安をホットミルクに落としてくれているように、あの日英知が流した涙が柊羽の中の不安を少しずつ溶かしていたのだ。言葉だけじゃあ足りないものを、今こうしてお互いの涙が教えてくれる。
「柊羽だから、柊羽じゃなきゃ、俺はついてこなかったよ。俺の為に仕事を辞めてくれってプロポーズしたんだよ?もっと自信持ってよ、リーダー」
「…英知には敵わないな」
いくつも落ちていた涙は気が付けば止まっていて、それは柊羽の中で抱えていたものを溶かし切った証明だった。それに安堵して手を離そうとした英知の手をそっと握り返した柊羽は、赤くなった目尻で少し眉を下げて笑った。今度こそどうしたのと聞けばすまないと1つ謝罪の言葉。
「英知の優しさに、自惚れてしまいそうだ」
「……そんなの、」
この時零れ落ちた言葉は脳を通さずそのまま心の声が溢れたもので、言ってからその意味に気付く。その意味が分からないほどもう英知は子供ではなかったのだけど、その言葉の意味を理解したまま言葉を重ねる。すっかりホットミルクのことは頭から抜けていた。暗闇から切り取られたダイニングテーブルの上でゆっくりと温度を下げていくマグカップの中身とは反対に、お互いの手のひらは温度を上げていく。
「俺だって、一緒だよ」
____
スタジオの中を駆け回る数多のスタッフの中で頭1つ飛び出た長身、駆け回る度に揺れる茶髪はよく目に入った。誰かに呼ばれる度に明るく返事を返してはそちらに向かってまた駆けて行くその姿を、忙しそうだとどこか他人事に考える自分と、そんな彼のことを随分と楽しそうだと思って見ている自分がいた。あれだけあちこちに奔走していては疲れるだろうに、額にうっすら汗を滲ませていたって疲れた顔1つしない。それどころか彼が駆けつけた先はどこか陽が射したように明るくなった気さえするのだ。その英知の姿に柊羽はフィクションの中でしか見たことの無い一目惚れというものをしたのだと、今なら言える。
いつだかに柊羽が所属していたユニットが出演した音楽番組。それに同じく出演していた海外の女性歌手。力強いながらも美しく繊細な歌声は柊羽も随分と気に入っていて、移動車の中でもよく聴いていた。その彼女を舞台袖からじっと見つめて聴き入っている横顔に、今がチャンスなのだと思ったのをよく覚えている。ステージを照らす照明の強い灯りが、舞台袖にいる英知の瞳にも反射して瞬いていた。それにまたひとつ恋をしたのだけど、きっと英知は知らない。「とても、いい歌ですよね」柊羽がそう声を掛けた時、振り向いた英知はひどく驚いた顔をしていた。まさかあの和泉柊羽が、そう顔に書いてあるのではないかと思うほどに。その時初めて近くで、正面から英知の顔を見てそこでやっと彼はとても美しいイエローグリーンの瞳をしているのだと知ったのだ。
あの時、彼女が歌っていたのは日本語版のタイトルで、
____
「いま、愛の話をしよう」
英知の言葉に驚いたように柊羽の手のひらが1つ震えた。今夜は随分と柊羽を驚かせてばかりだ。もしかしたら瞳がぽろりと落ちてしまうかもしれない、その時はちゃんと拾ってあげないと。そんなことを考える。
「俺さぁ、この歌すごく好きなんだ。それに何かと柊羽と縁もあってね。初めて柊羽が声を掛けてくれた時に1番近くで流れてたし、俺が柊羽のことを好きになった時にも1番近くで流れてた」
びっくりしすぎだよ、柊羽の顔を見てそう笑う。
柊羽に初めて声をかけられた時、まさかあの和泉柊羽が、そう思ったのをよく覚えている。ただのスタッフに声を掛けてくる人には思わなかったし、自分が声を掛けられるとも思っていなかったのだ。あんまりにもびっくりしたものだからあの時の自分が柊羽になんて言葉を返したのかも覚えていない。ただ、初めて近くで見た柊羽の瞳はあんまりにも綺麗で澄んだ水のようだと思ったのはやけに覚えていた。
「いつから、」
「ん?」
「いつから、好きになってくれたんだ」
英知の手を握る柊羽の手に僅かに力が込められる。ああ今夜はなんて珍しい柊羽の姿ばかり見る日だろうか。英知が少しの緊張と気恥しさと共に昔話をしているように、彼も同じように少しの緊張と気恥しさを抱えながら英知の話を聞いているのだ。
「柊羽が初めて約束に遅刻した日」
親しくなって半年程経った日の冬だった。柊羽が予約してくれていた英知だけじゃとても行かないようなレストラン。そこに向かう道すがらに届いた、仕事が押してしまって遅れるから先に入っていてほしいというメッセージ。この時の英知はまだあの和泉柊羽と自分が友人だということにまだ少し気持ちがついてこず、どこかふわふわとした気持ちでいた。ただのスタッフでしかない自分が彼と友人であるということに対する優越感のようなものを感じながらも、同時に気まぐれで声を掛けられただけの、その場だけの1人なのだろうという気持ちを抱えながら。スタジオで自分を見つけては何かと声を掛けてくれて、時折メッセージなんかも寄越してくれて、時間が合えば食事にも誘ってくれる。そこに特別を見出すだけの自惚れは持ち合わせていなかった。けれど初めて待ち合わせに遅れてやってきた柊羽の姿に英知の中で気持ちが変わったのだ。
「あの時、すっごい急いで来てくれたでしょ。冬なのに汗かくくらい必死になって、急いで来てくれてさ。…だからちょっとだけ、俺って柊羽にとってそれだけの人なのかなって、思っちゃった」
肩で息をして、遅れたことを詫びる言葉すら途切れ途切れで。別にそんなに急がなくたって英知はどこかに行ったりしないのに、その必死な姿がどうしようもなく愛おしいと思ってしまった。あの和泉柊羽が、ただのスタッフの1人でしかない自分のためにこうも必死になってくれたことがどうしようもなく嬉しいと思ってしまったのだ。あの時、英知は自分がこの男の特別であったらどんなに嬉しいことかと思い、笑われたっていいから自分は彼の特別なのかもしれないなんて自惚れを感じたのだ。あの時に店内で流れていたのは偶然にも柊羽が初めて声を掛けた時と同じ、彼女の歌だった。
彼女は去年歌手を引退した。結婚を期に引退した彼女はインタビュアーにどうして引退するのかと聞かれてこう答えた。私はたった一人の愛を語る相手を見つけたの、と。
「ずっと特別だったに決まってるじゃないか」
「今なら分かるけどね。流石に当時の俺じゃそうは思えなかったよ」
柊羽の手に込められていた力が緩められて、優しく指を絡めるように繋がれる。それに応えるように英知からも指を絡ませる。気が付けばお互いの熱を分け合った手のひらは溶け合うように同じ温度になっていた。
かたや誰もが知っている有名人、かたやただのAD。生きている場所すら違いすぎて自分が柊羽の特別だったらなんて思い込むことは出来ても信じることは出来やしなかった。これもきっと、今日までの柊羽がどんなに英知に言い聞かせたって納得なんてしやしなかったのだろう。今この瞬間、積み重ねてきた時間があるからこそ、信じることが出来るのだ。
「今は、ちゃんと英知に伝わっているか?」
「そりゃもう、勘弁してってくらいに」
「それはよかった。頑張った甲斐があったな」
美しい水色の瞳が英知を映していた。ようやっと柊羽の瞳に込められた意味を素直に受け止めて受け入れることができる。きっと今の自分も同じように堪えきれない想いが乗っかっているのだろう。
「そういえば話が脱線しちゃったね。…ねぇ、俺も柊羽の気持ちに自惚れていいかな」
柊羽が肩を揺らして当たり前だろうと笑う。それに良かったと笑えば繋いでいない方の手がそっと英知に伸びる。頬を滑る柊羽の手のひらに目を細めれば頭の片隅に彼女の歌が流れ出す。きっと柊羽の頭でも同じように彼女の歌が流れているのだろう。マグカップの中のホットミルクはもうとっくに冷め切っていて、けれど今の英知には丁度いいに違いない。
いま、愛の話をしよう。そうして愛を語り合ったら最後はそっとキスをしよう。彼女は最後にそう歌っていた。
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