薄明
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愛を知ってしまった僕たちは呪われてしまった
忘れ形見
、
朝露と共に消えていくもの
の続き
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sideF
五条が自分が思っているよりずっと優しい人なのだと知ったのは、実は意外と最近の話だ。知った、というよりは受け入れた、の方が適切かもしれない。とにかく、五条が自分が思っているよりずっと優しい人で、酷な人だと知ったのは中学三年の夏だった。
急に抱けなどと言って本当に抱いてもらえるとは流石に思っていなかった。そう分かってはいても、思わず口にしてしまったのは甘えだった。津美紀が起きなくなって数ヶ月。色んなことを考えて色んな想像をして疲労感だけが募って。そんな伏黒を見兼ねて外に連れ出してくれた五条に甘えたのだ。付き合ってるから、なんて下手くそな建前まで言って。津美紀が「五条さんは優しいね」なんて言うといつだって困ったように笑う五条のことを、伏黒も同じく優しい人だと思っていたから。
「めぐみ」
名前を呼んで伏黒の頬を撫でた五条の手はどうしてだか躊躇いがちで、この日だけ少し違った。何をそんなに苦しそうな顔をしているのか、触れようと伸ばした手はしかし優しく掴まれて遮られた。まるで自分には触れさせまいというように布団の上に縫い止められる。
「…ごじょ、」
「今日は一先ずこれだけね」
本当に抱いてもらえるなんて思っちゃいなかった。それでも五条が少しでも伏黒に触れてくれるのなら、それに応えるように伏黒だって手を伸ばしたいと思っていたのにそれすらさせてもらえない。一方通行で、五条をそこに置いたまま伏黒だけが与えられるように唇が重ねられる。今日は、の次がいつ来るのかも、一先ずで区切られた先があるのかも分からない。
口内に五条の厚い舌が滑り込んできて、初めての感覚に驚いて指先がぴくりと動いた。キスはした事があったけれど、こんなキスはしたことがなかった。セックスはしない代わりというように口内をまさぐる舌に必死になりながらも、きっとこうして五条は有耶無耶にするのだろうと気付く。この吐息を交換するようなキスにきっと次はない。少なくとも、伏黒はこれを最初で最後にしようと思った。ただキスをしただけの夜になる。わざわざこんな辺鄙な場所に来たのにも関わらず、五条と伏黒の関係はこれ以上進まない、そんな夜だ。それでもどこか気持ちがすっきりとしているのは、この3日間があったからだった。伏黒の為だけに与えられた伏黒と五条のことしか考えなくていい、誰にも言えない3日間。
震える舌先で五条に応えれば、それは許されて少しだけ瞳の奥が熱くなった。
この町を出るためにスマートフォンで経路を調べて、初めて駅があることを知った。当然名前も聞いたことがないその駅は、辿り着いてみれば酷く寂れた無人駅だった。この駅は日に数本しか止まらないけれど、運良く次の電車が来るまでにそう時間はかからなそうだった。ホームに屋根もなくて目の前にあるのは少し遠くなった海と街並み。この街の名前はきっともう思い出すことはなくて、行き方を調べることも無い。何かを捨て置いて、気持ちの整理をつけるのにも丁度いい街だ。
伏黒にとって優しさの定義は五条と津美紀だった。五条と津美紀以外に優しい人がいるのも知っている、もっと優しい人がいるのも知っている。優しいからといってなんでもしてくれるわけじゃないのも、優しさが万能でないことも知っている。それでも伏黒は今の五条との関係を優しさからくるものだと、そう解釈した。遠くからの潮風はじりじりと熱光線に焼かれる身には心地よかった。今にも崩れてしまいそうなすっかり老朽化の進んだベンチ。そこに並んで腰掛けて、ぼんやりと考える。
五条は伏黒の好意を知っている。それこそ何年も前から。だから今の関係がここにあるのだが、その関係には常に違和感が付き纏っていた。いつだって伏黒が五条を見上げればサングラスの隙間から柔く細められた瞳が見つめ返してくれたけれど、手を伸ばして触れようとすればそれはやんわりと止められてしまう。触れるのはいつだって五条からで、伏黒から触れられたことはない。キスひとつだって、伏黒が望めば与えてくれるけれどその逆はない。伏黒が望んだ時にだけ、五条だけが飛び越えられる一線があるのだ。
美しいフィクションの世界では、浮かれたノンフィクションの世界では、即物的な触れ合いだけが愛ではないという。もっと見えない繋がりがあるのだという。しかしそれはお互いの持つ感情が同じであればの話だ。隣で溜まったメールに目を通している五条を見る。五条からしたら伏黒なんて子供で、そのどうしようもない子供の我儘に付き合ってくれているだけなのだ。あの時五条が好きだと瞳で訴えてしまったばかりに、応えてくれたと喜んでしまったばかりに、この歪な関係は今日まで続いてしまった。愛と優しさは違う、子供は大人にならなくてはならない。そう気付いてしまえばもう五条の優しさにいつまでもおんぶにだっこではいられなかった。
五条越しに貨物列車が向かってくるのが見えた。ぐんぐんと迫るそれは直ぐに大きな音と風と共に2人の前を通過する。まだ尻尾の見えない貨物列車。それが起こす風に煽られながらこの3日間を思い出せば、星が瞬くように一瞬の煌きが走馬灯のように駆け巡る。目が回るほど忙しいのに伏黒の為だけに用意してくれた5日間(現実は3日間だけだったけれど、それだって凄いことだ)。伏黒の為に時間も金も何もかもを費やされた贅沢な日々。見慣れなくて、でも2度目はない寂れた街の風景も、この街の人間しか知らないだろう海鮮丼の味も、何十年前からあるのか分からないコインランドリーと駄菓子屋も、身体の大きい五条と一緒では少しだけ窮屈な旅館の一室も。何もかもがひと夏だけの蜃気楼のようだった。いつもの日常に帰れば3日と経たずに遠い昔の話のようになってしまうに違いない。それでもきっと、昨夜のキスを忘れることはない。あの触れ合いだけが確かなものだった。遠く彼方に貨物列車の終わりが見えた。思わず呟く。
「…大人に、なりたくないな」
列車が走る音にかき消されたと思った言葉は意味までは届かずとも五条に聞こえてしまったようで、携帯電話から視線を持ち上げた五条がなんか言った?と振り向いた。
「…いや、」
なんでもないと言いかけて躊躇う。
五条が面倒を見てくれるのは春に入学する呪術高専を卒業するまでだ。そこが面倒を見てもらえる子供でいられるタイムリミットだけれど、その日までずっと五条の手を煩わせようとも甘えようとも思えない程度には伏黒は少し大人になってしまった。この3日間はこの関係の成り立ちに気付くいいきっかけで、大人に近付くいいきっかけで、そして多分今が一番いい区切りだった。
ごうっ、と一際大きな音を立てて貨物列車の最後の車両が2人の前を通り過ぎる。途端に静かになった駅のホームで努めて平静に、女々しくなどならないように口を開く。
「今までずっと、付き合ってくれてありがとうございました」
じっとこちらを見る五条がどんな顔をしているのか、サングラスに阻まれて分からないが、ああやっとかと安堵しているのかもしれない。この形だけの恋人のような関係を五条がどう思っていたか、伏黒は知らないのだから。聞いたこともなかった。
「もう、大丈夫です。…丁度来年からは五条さんが担任になるし…少し早いですがこれからは先生と生徒でお願いします」
食い下がってもらえるとは思ってないけれど、ほんの少しでも寂しいと思ってくれればそれ以上のことはない。それすら、傲慢だろうか。
「…ん、分かった」
少し間があってそう返事をくれた五条の表情は、やっぱり読めなかった。
_____
しくった、そう思った時にはもう眼前に呪霊がいた。瀕死の傷を負いながらも迫ってきたそれに一瞬反応が遅れて、無防備な自身を晒すことになる。人が醜く崩れた形をした目の前のそれは、口のようなものを大きく広げた。その口の向こうには呪霊の姿には似合わない、透き通るような真っ青な瞳が一つだけあった。いやに見覚えのあるその美しい瞳と目が合ったのも束の間、伸びてきた舌先は無遠慮に伏黒の左側の瞳を舐め上げた。粘ついた嫌な音にやっと身体が動き出す。
「っ、玉犬!」
舌先を振り払ってそう叫ぶが早いか、玉犬が2匹で呪霊の喉元と胴体と思しき所に飛び付いてとどめを刺す。声にならない叫びを上げた呪霊はもう動くことも叶わず呆気なく玉犬達の餌になった。
ぜいぜいと肩で息をしながら舐め上げられた左目を手の甲で拭う。そう手強い相手ではなかった筈だ。あんな深手を負った相手に懐に入れられる程、自身の経験が浅いとも思っていない。きっと五条だってある程度それを見越してこの任務を伏黒に任せたに違いない。じゃあなんで、自分はあの場でまるで関係ないことを思い出してしまったのだろう。何ヶ月も前のことで、思い出さないようにしていたのに。一瞬動きが遅れたのはそれが理由だった。
もう一度左目を手の甲で擦る。呪霊の命が尽きると同時に舐め上げらた瞳の粘ついた感触はなくなった。それなのにどうしてか熱を持って仕方ない。
呪霊を片付け終わり近寄ってきた玉犬が不安げに伏黒を見上げる。
「俺は大丈夫だ。よくやった」
かがみ込んでそんな2匹の頭を撫でてやれば途端に嬉しそうに目を細める。式神だというのに随分と本物のような2匹は触れば温度はなくとも毛の柔らかい感触はするし、仕事を終えればちゃんと伏黒の元に帰ってきて頭を寄せてくる。ある程度労ったところで2匹を影の中に戻すと、それと同時に今までどこに行っていたのか五条が伏黒の近くに降り立つ。ちらりと周囲を見渡して満足気に頷いた。
「こんくらいなら1人でも平気そうだね」
しかしその後に、でも、と付け加えた。大股で目の前にやってくると伏黒の左頬に触れた。親指の腹で左目の下を軽くなぞる。
「ちょっと油断したでしょ」
五条に触れられるのなんて夏以来だった。そこに如何なる意味も無いとしても、それだけで伏黒の身体は動きを止める。上手いこと頭の片隅に追いやれていた筈なのに、隠していた未練がどこからか顔を出すようだった。
「呪われてる」
呪霊の唾液が垂れた辺りを指先が撫でた瞬間、かっと左の目が熱を持つ。その熱を発端に夏のことが頭の中を過ぎった。じりじりと肌を焼く太陽光線、生ぬるい風、人のいない海、そこに置いていった色々なもの。持ち帰ったもの。あの日伏黒の手を縫い止めた五条の手はひどく熱かった。
左目の熱がぎゅうと纏まって雫になる。
「……え、」
伏黒の左目だけから涙が零れ落ちて五条の指先を濡らしていた。どこか痛いのでも苦しいのでもない、伏黒の意志とは関係なく勝手に溢れ出すのだ。それが五条が言っていた呪いなのだと気付くのにそう時間は掛からなかった。左の頬だけ濡らしていくそれを1度拭った五条は「ほら、やっぱり」と言ってからポケットから取り出したスマートフォンでどこかへ連絡を取り始めた。伏黒が押し隠していた未練を燃料にするように左目だけを満たす熱は涙という形になって次から次へと押し出されていく。おそらく高専の誰かだろう。伏黒はそこに連絡している五条をぼんやりと見ながら事前に渡されていた資料を思い出していた。
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sideG
「…ふぅん、今は落ち着いてるんだ」
五条の言葉に受話器の向こうにいる家入が「もう殆ど消えかかってる。明日いっぱいだろう」と言った。
つい一昨日のこと。伏黒が呪霊との戦闘中に軽い呪いを受けた。高専に正式に入学する前に、形としては五条の任務ではあるが伏黒1人での呪霊討伐を行った。あくまでも伏黒の今の時点での実力を測るためのもので、普段ならまず五条には回ってこない程度のそう難しくないものだ。その任務をこなす様子を少し離れた所から見守っていたのだが、途中までは五条が思っていたよりもずっと順調に祓い続けていたのに、最後の1匹になって一瞬反応が遅れた。その一瞬の油断で呪われてしまったのだが、しかし不幸中の幸いか、伏黒が貰った呪いは呪霊の強さ同様にそう強力なものではないらしく数日もすれば自然と消えるものらしい。涙も五条が任務に出掛けた昨日頃から止まり、今は入学したら伏黒の部屋となる予定の寮内の一室で静かに過ごしているのだという。
「ま、軽いもんでよかったよ。恵にもいい勉強になったでしょ」
『随分とあっさりしてるんだな。大層可愛がっていたからもっと慌てるかと思った』
「…別に、特別可愛がってるわけじゃないし」
『ふぅん』
電話の向こうで家入がくつくつと笑う。なんだか胸の内を読まれているようであまり気分のいいものではなかった。本当は呪いが解けるまでもう少し伏黒の面倒を見てやりたいけれど、もうそれが出来る関係でもない。そう重篤でもないのに、教え子1人のためだけに他の仕事を投げ出して何日も時間を割くのは正しい教師と生徒の関係か、少なくとも五条の中では否だった。
家入が言うには五条が仕事から帰る明後日には元に戻っているらしい。昨日から五条が呼び出された仕事は幸いにも高専からそう遠くない。このまま予定通りに終わらせてから迎えに行けば丁度いいだろう。
『まぁお前たちの仲がどうなっても私はいいんだが、一応いいことを教えておいてやろう』
「なにそれ」
『昨日、伏黒が自販機で大納言しるこを買っていたぞ』
「…は?」
とりあえず明日には帰ってきた方がいいんじゃないか、そう言い残して五条が意味を聞く前に通話は切られてしまった。
高専の中にある自動販売機には五条のリクエストで一つだけ大納言しるこが入っている。飲むのも基本的に五条だけで、少なくとも伏黒はまず飲まない。わざわざ五条の為に買ったのでもないだろう。それじゃあ、何故わざわざ飲まないものを買ったのか。そして家入はそれを五条に伝えたのか。通話の切られたスマートフォンを手に首を捻る。
呪いが関係しているのかと思ったが、あの呪いは人に甘いものを食べさせるとかそんなファンシーなものではない。あの呪霊の生まれた場所、理由に起因してあれは呪いを受けた人の中の未練を勝手に増幅して涙という形にするものだ。受けた本人に未練がなければ特に害などないが、しかしあの場所で未練の無い人間など稀だ。だから被害は小さいにしろ、勝手に涙が出てくると訴える人間が多発したから依頼が来たのだ。
伏黒が赴いたあの場所は決して恋が実らないという噂のあるスポットだった。雑誌やテレビでは特集されることはなく、SNSや世間話などでまことしやかに囁かれ続けている場所。都会から少し電車に乗れば行けるその小高い丘は、街々を見下ろす景色が意外と綺麗で愛の告白をするにはそれなりに雰囲気の出る場所だった。しかしここに雰囲気とは真逆のジンクスがあるとは知らずに告白をして実らなかった人、知っていてここで成就を阻止した人、された人。そんな色々な悲しみやら何やらが積もり積もって生まれたのが、伏黒が呪いを受けた呪霊だ。その生まれた経緯や場所に渦巻く感情に起因して、あの呪いは今伏黒の中にある未練を勝手に形にしている。
「………ん?」
あの夏で五条と伏黒の恋人の紛い物のような関係は終わった。それ以降に伏黒が誰か他の人間に惚れたのなら呪いが発現したのも分かる。しかし夏以降も何かと任務に同行させたり稽古をつけたりとよく会いには行っていたが、その中で伏黒の人間関係が変わった気配も誰かと懇意にしている様子もなかった。上手く隠し通していたと言われてしまえばそれまでだが、少なくとも五条の記憶の中では伏黒に愛だの恋だのの気配なんてまるで感じなかった。
なのにそれじゃあ、どうして。
自惚れだとか傲慢だとか、気の所為だとか。そう一蹴されるかもしれないが、家入が言い残した五条だけしか飲まない大納言しるこがそれに拍車をかける。幸いにも今いる場所から高専はそう遠くなくて、本来は明後日で帰る予定ではあったけれど殆どのやることは終わっていて予備日のようなものだった。本来は明後日までだが、明日で切り上げたって問題は無い。その都合の良さはまるでちゃんと話をしろと、思うことは無いのかと、誰かが問い掛けているかのようだった。
思えばあの日に二つ返事で了承したのは、全て自分のためで伏黒とちゃんと話はしたことがなかった。
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もう大丈夫だと言われた時、遂にかと思った。元々この関係は終わりのある関係だと思っていたが、その終わりが五条が思っているより早く訪れたのだと。
時が経てば経つほど伏黒に隠している罪はその存在を大きくしてゆく。小さい伏黒が抱いていた気持ちに永遠を感じれるほど、五条が隠していることは小さくはなかった。いつか伏黒が五条の手を振り払ったとて、無知な子供がものを知ったことにすればいい。世界を知って五条が本当は優しい人間などではないと知ったことにすればいい。この関係の終わりを考えることの全てが一生付き纏う罪を五条の中から覆い隠す、都合のいい言い訳でしかなかった。伏黒の好意に乗っかって恋人みたいな関係を続けながらも常に言い訳と予防線が張られていた、歪なものだった。
いつかきっと寂れたままに無くなってしまうこの街は、そういう終わりに丁度いい街だった。ホームの向こう、少し遠くにある海は五条の罪までは食えなくとも、2人の関係くらいは綺麗に丸ごと食べきってしまってくれるといい。本当は自分のした事を一瞬だけ無かったことにしてしまいたくて、なんのしがらみもない身軽な振りをしたくて、どこにでも行けるのだと思い込んでみたくて、駆け落ちの真似事をした。伏黒を気遣ってのことに嘘はないが、その裏には五条のそんな浅はかな思いがあった。伏黒に出会うにはこれまでの全ては必須だが、それがなければきっとこの気持ちに後ろめたさなんて感じなかった。素のままで、何も考えずに伏黒のことを好きだと言いたかったのだ。そんな浅はかな五条の思いも、この海が食べきってくれたらいい。
「…少し早いけどこれからは先生と生徒でお願いします」
そう言って軽く頭を下げてみせた伏黒は遂に大人になってしまった。子供の成長は本当に早い。どうせ終わると思いながらも甘い夢みたいだった日々はあっという間だった。未練がないと言えば当然嘘になる。伏黒がずっとものを知らない子供のままでいてくれたらどれほど良かったことか。
「…ん、分かった」
なにか一言でも気の利いた言葉が言えたらよかったのだけど、未練たらしい言葉が出そうで何も言えなかった。
この子に罪の告白を出来なくなった瞬間から、もう愛していたのだと気付いたのはいつだったか。顔を上げた伏黒が真っ直ぐに五条を見る。海風に煽られる黒髪で表情の全ては見えなかった。
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sideF
がこん、と鈍い音を立てて取り出し口に缶が落ちてくる。一昨日飲んでうんざりして、昨日もやっぱり飲んでうんざりした筈なのに、また懲りずに買ってしまった。なんだか伏黒の中の未練を象徴しているようで嫌になる。普段なら絶対飲まない大納言しるこは、昨日と同じ顔をして伏黒の手の中に収まった。取り出したばかりでまだ熱いそれは、左目の熱とひどく似ている。五条が出張でいなくなってからぱたりと涙は止まってしまったが、じんじんとした熱は今も変わらない。家入が言うには今日いっぱいで呪いは解けるだろうと言っていたからそれまでの辛抱だ。この熱が収まってしまえば、もう飲むだけで一苦労するこんなものを買わなくて済むのだろう。伏黒にかけられた呪いは受けた人間の未練を増すものだというから、こうして1日1本律儀にしるこなんて買ってしまうのはそれのせいに違いなかった。わざわざ五条が好みそうなものを買ってしまうなんて、呪いのせいとはいえ女々しくて仕方ない。最初から五条のことを好きだったのなんて自分だけだったのに。優しさに甘えていただけだったのに、未だにもしもを考えるなんて。
「恵じゃねーか」
深い溜息を吐き出して自室へと戻ろうとした時、不意に声をかけられた。まだ入学もしていない自分を知っている人間は限られている。一体誰だと声のした方を振り向けば薙刀を持ったジャージ姿の真希がいた。
「…お久しぶりです」
「珍しいな。ここに来るの」
ジャージのポケットから小銭入れを取り出した真希はさして興味もなさそうに問い掛けながら自販機の前へと立った。指先がいくつか並んだ自販機を指しながらあちらこちらへとさ迷ったのも一瞬のことで、すぐに目星のものを見つけたのか伏黒の斜め前にある自販機へと小銭を入れていく。
「ちょっと呪いを受けてしまって、消えるまではここにいさせてもらうことになりました」
「あー…じゃあ悟もここにいんの?」
「いや、出張でいませんけど…今の話に先生関係ありました?」
スポーツドリンクを選んだ真希は、取り出してすぐにそれを開けながら「だってあいつ可愛がってたじゃん。恵のこと」と言った。その言葉に何か別の意味も含まれているような気がして首を傾げる。
きっと五条は五条なりに伏黒と津美紀のことを可愛がってくれていた。けれどそれは教え子として、面倒を見てもらっている立場としてのもので、それ以上でも以下でもない筈だ。今となってはわざわざ数日開けてもらえる程の関係でもない。
腑に落ちないという顔をしている伏黒を一瞥して真希は半分ほど一息にペットボトルの中身を呷った。
「前に禪院で会った時、悟がお前にべったりだったからさ。それなりに大事にしてんだなって思ったんだよ。うちの連中が何するか分かんないってものあるんだろうけど」
五条に連れられて何度か禪院家に訪れたことがある。一番近い記憶で中学三年の夏前頃だったろうか。何度訪れたって二人のことを歓迎する空気などではなくて、あまり気分のいいものでもなかった。真希の言う通りの理由か、思い返せば常に五条が近くにいた気がするし、なんなら離れるなとも言われていた気がする。大本を辿れば禪院の人間であるのにも関わらずそこに属しない伏黒、大昔のしがらみもあって良く思ってはいない五条家の人間、そのどちらの意味でもそれ以外の意味でも視線がよく突き刺さったものだった。
しかしその時の事を、他人から見たら大事にされていると映るのかと少し意外な気持ちになる。
「…そう、ですか」
「ま、いつまでも子供じゃいらんねーし、いなくてもおかしくねぇな」
その言葉に呪われてしまった左目が更に熱を持つようだった。あの日にちゃんと五条との関係は捨て去って一新した筈なのに、今こうして呪いが発現するということは捨て切れていなかったということだ。この後に及んでまだ子供のふりをして五条の手に甘えたいと思っている。情けなくて仕方ない。五条があんまりにも優しくしてくれるから、我儘になってしまう。今も好きだと言ったら、もう一度真似事をしてくれるだろうか、だなんて。
上手い返しが見つからずに黙り込む伏黒に、真希がにやりと笑ってこちらを見た。
「そういや、どんな呪い受けたんだよ」
「どんな、って…」
まさか素直に色恋の未練が云々と言う訳にもいかず言葉に詰まる。目の前に五条がいない限りは見た目には何も変わりがないが、だからといって上手い言い訳が咄嗟に出るわけでもない。どう返したものかと考えあぐねていると、不意に真希の表情が苦虫でも噛み潰したようなものへと変わった。
「…いや、その話はまた今度でいい」
「……あの、?」
急にどうしたんだと立ち尽くす伏黒をよそに真希はひらりと手を振った。
「面倒に巻き込まれたくねーし。それ、悟にやったら喜ぶんじゃねーの」
「…は?」
長いポニーテールを揺らしてグラウンドの方へと向かった真希は伏黒の返事を聞く気はないらしく、振り返ることも無くさっさと立ち去ってしまう。去り際の一言だけがその場に残されて、唐突に話を終わらせた真希の行動に首を捻るしかない。手に持ったままのしるこを渡したら喜ぶだろうとは言うが、渡す相手はここにいないし渡す理由もない。余計に疑問が募るだけだった。
話し相手もいなくなってしまった今、いつまでもここにいる理由もない。昨日に引き続いて甘ったるくて飲むのも一苦労なこれを消費しなくてはと、伏黒は真希とは反対方向へと踵を返した。
「恵!」
その声に、知らず足元に落ちていた視線を弾かれたように持ち上げる。見なくても分かる声を認識した瞬間、伏黒の意志とは関係なく左目の熱が勝手に涙へと形を変えていく。気がつけば伏黒から数メートル離れた所に五条がいて、真希が話を切り上げた理由をそこで察する。伏黒の向こう、校舎の窓あたりにこちらへ向かう五条でも見えたのだろう。面倒に巻き込まれたくないとは五条の日頃の行いからに違いない。しかしそれよりも、今日はまだ出張だった筈なのに何故。
思わずじり、と1歩後退りするも大股でやってきた五条にすぐ追い付かれてしまう。五条が缶を握り締めたままの伏黒の手首を掴んだ頃には再び形となった呪いが左の頬を濡らしていた。
「せんせ、」
「なんでこれ買ったの」
伏黒にはこの手を振り払おうなどという気はなかった。どんな形であっても五条に触れられるだけで未練がましくこの身体は動きを止めてしまうのだ。
「真希と話してる時は泣いてなかったのに、何で今は泣いてるの」
伏黒が答えられないでいる間に次の言葉が重ねられて、缶を握る手に力が籠る。目隠しに覆われて五条の表情は読めない。五条が好むものを手にして、五条の前でだけさめざめと泣く。こんなどうしようも無い姿に呆れているのか苛立っているのか、それすらも分からない。
言葉の出ない伏黒の返事を待たずに、手首を掴んでいた手が今度は缶と一緒に伏黒の手を包み込む。血の気の引いて冷えきった手にはその温度は熱すぎるくらいだった。
五条の顔を真っ直ぐ見れなくて足元に落とした視線の先では、なにか見えない一線があるように2人のつま先の間には距離があった。じくじくと熱さで痛む左目と、五条に掴まれて逃げられないこの状況と、なんて返せば五条の手を煩わせないかと。考えることが一度に押し寄せてなにも纏まりやしない。ただただ涙だけが言葉の代わりによく落ちた。
「…ねぇ、」
ひとつ息を吸い込む間があった。
「恵は僕のこと、まだ好きなの…?」
「…そ、れは」
違うと言えればよかった。しるこの缶を買ったのも間違えてしまったからで、今泣いているのもタイミングが偶然そうだっただけで、伏黒が抱える未練は他にある。そう返すことが出来ればよかったのに、五条に嘘が付けない頭は馬鹿正直に返してしまう。呪いが解けてしまえばこんな叱られた子供みたいな真似をしなくて済むのに。掴まれていない方の手で乱雑に涙を拭った。しかし何度手の甲で擦っても呪いはしっかり仕事をしてしまう。
「…すみ、ません…ちゃんと、捨てられたと思ってたんです、」
拭っても拭っても追いつかなくて、本当は今すぐこの場から立ち去ってしまいたいけれど触れる五条の温度が勿体なくて出来なかった。そんなところも卑しくて嫌になる。
「五条先生に、…もう、迷惑かけたくないから…」
「…迷惑、って」
涙ですっかり濡れてしまった手も掴まれてしまって、覆い隠していた視界が顕になる。左側だけ不格好に霞んだ視界の中で、伏黒の顔を覗き込むようにしゃがみ込んだ五条と目が合った。いつの間に目隠しを首まで下げたのか、息を飲むほど綺麗な瞳が伏黒を見ている。
この瞳があの日は見えなかった。目は口ほどに物を言うとは言うが、それは案外真実だ。少なくとも今の五条の表情は伏黒に呆れているのでも苛立っているのでもない。戸惑いと、緊張がそこにはあった。
「迷惑なんて思ってないよ。…だって本当はあの日、別れたくなかった」
「っじゃあ、なんで、」
あの時そう言ってくれなかったんだ、とは言えなかった。あの日あの時、五条が食い下がってくれればと願った。ほんの少しでも関係の終わりを寂しいと思ってくれればと我儘なことを思った。けれど五条がこの関係をどう思っていたのかなんて分からないから、その気持ちは墓まで持っていくつもりだったのに。なんだって今更そんなことを言うのだろう。それが気休めの優しさだとしても嬉しくて、仕方ないのだからどうしようもない。
五条が一瞬何かを言い淀むように言葉を詰まらせて、それから口を開いた。
「いつか恵は、成長して…僕のことを好きじゃなくなると思ってたから、…あの時がそうなんだって、思って……」
左目が焼けるように熱い。涙も勢いを増して、頬を伝って首を伝いシャツの首元を濡らし始めていた。
五条がいや、と伏黒の腕を掴んだまま項垂れる。
「…全部言い訳。大人になったら終わるもんだと思ってたから、ずっと準備してた。でも、恵にこんなこと言わせるつもりじゃなかった」
五条の言葉を反芻して、回らない頭で考える。どうして大人になったら五条のことを好きじゃなくなるのだろう。少なくとも小学生の頃から今まで、この気持ちに変化があったことなんて1度もないのに。夏の初めの最後にしたキスが本当は涙が出るくらい嬉しかったことを、五条はきっと知らない。
全てのことの始まりは津美紀が林間合宿で不在だった日の夜だった。ずっと光がちらついて寿命が近かった蛍光灯がとうとう駄目になってしまって、お互いの顔が見えないままに話をした。思えば大切な話をする時にはいつもお互いの顔がよく見えていなかった。あの時にちゃんと五条が言う好きの意味を聞いておけばよかった。浮かれる前にちゃんと話をすればよかった。次の日の朝にだって顔を見て話す時間はあったのに。小学生の頭にそんなことを思っても仕方ないのは分かっているけれど、今になってああすればよかったこうすればよかったと昔のことが頭をよぎる。
「…なんで、俺が先生のことを好きじゃなくなるのか分からないですけど、」
とうとう鼻水まで出てきてすん、と鼻をすする。
「俺の気持ちがあの日も今も変わらないなら、…それが答えじゃ、駄目なんですか」
好きだとか愛してるだとかなんていう気持ちがどういうものなのか、具体的な答えは今だって分からないけれど、未だに変わらないそれがそうならいい。伏黒にその変わらない気持ちがある限り五条があの関係を続ける気でいてくれるのだとしたら、そこにどんな意味があったっていい。惨めに泣き腫らす可哀想な人間に手を差し伸べる慈善でもいい、この場を収めるための方便でもよかった。好きな人間に優しくされて、それがどんな形であっても嬉しくないわけがないのだ。
「…俺の気持ちは変わらないから、情けでもいいから、…また…っ、」
ぎゅうと伏黒の手を掴む五条の手に力が込められて、それが離れたと思ったら立ち膝になった五条に抱き締められていた。思わず手から缶が落ちてコンクリートの地面にぶつかる音がした。そういえば今までに抱き締められたことはあっただろうか、なんて関係ないことを考える。
「情だけでこんなに優しくするほどいい人じゃないよ、僕」
「…こんなに優しい人、知らない、です」
「いずれ知ってくよ。そのうち呆れて幻滅して、顔も見たくないってなるかも」
「でも、じゃなかったら、…なんで」
「恵のことが好きだからだよ。好きだからずっと恵の気持ちに乗っかってたし、自分のための逃げ道を用意してたし、…それで今すごく後悔してる」
ぎゅうぎゅうと抱き締める腕の強さに胸が締め付けられて、けれどそれが五条の言葉が嘘ではないという証明のようだった。五条は自分のことをそんな優しい人間ではないと言うけれど、今こうして話をしてくれるのだからやはり優しい人間だ。線引きをしろと幼い伏黒に教えたが、その線引きの中で五条を善人として区別したのは間違いじゃなかった。
だからやっぱり、好きなのだ。伏黒の為にこうして後悔をして、話をしてくれて、夏休みに合わせて休みを取ってくれて、自分たち姉弟の為にお菓子を買ってきてくれて、こんなにも臆病になる五条のことが。たとえ五条が本当に善人じゃなくてもきっと好きなことには変わりない。憎んだってきっとそれは変わらない。好きだとか愛してるだとか、その具体的な形も答えも分からないが、これが愛じゃなかったら何が愛なのだろう。
「…抱き締めて、いいですか」
五条に触れようとすればやんわりと止められてきた。伏黒が求めた時には触れてきたくせに、伏黒から伸ばす手はいつだって躱すのだ。今まではそれがこの関係が紛い物だということを暗に伝えているようだったけれど、本当は五条が言ういつか伏黒が愛想を尽かした時の為の逃げ道なのだとしたら。もしそうならこのまま触れてしまったら、この関係は本物になってしまうのではないか。そんなことを考える。背中に手を回すだけなのに、そこには大きな意味があるような気がした。
けれど五条の返事は早かった。
「いいよ」
少しの間も開けずにそう返事が返ってきて、おそるおそるその背中に手を伸ばす。右目も熱くて、その熱がぎゅうと丸まって雫になる。そんな段階になってようやくここが自販機の置かれた外で、屋根があるとはいえいつ人が来てもおかしくない場所なのだと思い出す。視界の端では大納言しるこの缶が転がっていて少し間抜けだった。人に見られたらなんと言い訳をしよう、とは思うけれど手のひらに触れた五条の背中にそんなものは吹き飛んでしまった。
初めて触れた五条の背中は伏黒が思っているより大きくて、でも子供みたいに小さかった。
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sideG
缶の端が不格好に凹んだ大納言しるこの缶はすっかり冷め切っていた。一先ず1度部屋に帰ろうかと伏黒の手を引けば素直に握り返されて、きっと自分はこの手を二度と離せやしないのだろうと確信にも似た何かを思う。
あの日、抱いてくれと流れ着いた港町で伏黒がそう告げた時。ついにこの時がきてしまったと五条は胸の内で静かに震えた。喜びが半分と、逃げ出したいという気持ちが半分とで。やがて五条から目を離すことなく部屋の電気が消されて、この言葉が半ば自棄ではあろうがただの冗談ではないのだと理解もしてしまった。
暗くなった部屋で向かい合って、まるで津美紀が林間合宿でいない日の夜みたいだった。大事な時にはいつもお互いの顔がよく見えないことに、後になって気がつく。伏黒がそう望んでいるから。そう言い訳をして頬に触れて首筋を辿り、早鐘を打つ心臓の辺りに触れた。月明かりに照らされて見えてしまった耳まで赤い顔に、これ以上は駄目だと脳が警鐘を鳴らしたのだ。どうせ伏黒も本当に抱いてもらえるとは思っていない。けれど真似事はできる。だがそれをしてはならないとなけなしの理性が止めた。伏黒の指先が五条に触れて、その手が縋るように背中に回されて、そんなことになったらきっと五条は伏黒のことを手放せなくなる。だからずっと与えるだけ与えて伏黒からは何も受け取らないようにしていたのに。
伏黒が伸ばす手を布団に縫い止めて、そうしてこれが最初で最後の夜にしようと思った筈だった。今日はの次も、一先ずの先も、来ないようにしようと思った筈だったのに。案外早くその次は来てしまった。
結局この子に甘えて罪の告白など出来ないままだったけれど、いつか隠していることを伝える勇気が出てきた時、五条に愛想を尽かしてもその手は離してやれない。愛と呪いは紙一重だ。
「ね、恵」
「…なんですか」
「わざわざこんなの買うくらい寂しかった?」
「……たぶん、もう二度と買わない…と、思います」
「そっか」
冷め切ったしるこはいやに防腐剤やら添加物やらの人工的な味が目立って美味しくはなかった。しかし忘れてはならない味だった。
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2023.09.08 23:30:45
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忘れ形見、朝露と共に消えていくものの続き
sideF
五条が自分が思っているよりずっと優しい人なのだと知ったのは、実は意外と最近の話だ。知った、というよりは受け入れた、の方が適切かもしれない。とにかく、五条が自分が思っているよりずっと優しい人で、酷な人だと知ったのは中学三年の夏だった。
急に抱けなどと言って本当に抱いてもらえるとは流石に思っていなかった。そう分かってはいても、思わず口にしてしまったのは甘えだった。津美紀が起きなくなって数ヶ月。色んなことを考えて色んな想像をして疲労感だけが募って。そんな伏黒を見兼ねて外に連れ出してくれた五条に甘えたのだ。付き合ってるから、なんて下手くそな建前まで言って。津美紀が「五条さんは優しいね」なんて言うといつだって困ったように笑う五条のことを、伏黒も同じく優しい人だと思っていたから。
「めぐみ」
名前を呼んで伏黒の頬を撫でた五条の手はどうしてだか躊躇いがちで、この日だけ少し違った。何をそんなに苦しそうな顔をしているのか、触れようと伸ばした手はしかし優しく掴まれて遮られた。まるで自分には触れさせまいというように布団の上に縫い止められる。
「…ごじょ、」
「今日は一先ずこれだけね」
本当に抱いてもらえるなんて思っちゃいなかった。それでも五条が少しでも伏黒に触れてくれるのなら、それに応えるように伏黒だって手を伸ばしたいと思っていたのにそれすらさせてもらえない。一方通行で、五条をそこに置いたまま伏黒だけが与えられるように唇が重ねられる。今日は、の次がいつ来るのかも、一先ずで区切られた先があるのかも分からない。
口内に五条の厚い舌が滑り込んできて、初めての感覚に驚いて指先がぴくりと動いた。キスはした事があったけれど、こんなキスはしたことがなかった。セックスはしない代わりというように口内をまさぐる舌に必死になりながらも、きっとこうして五条は有耶無耶にするのだろうと気付く。この吐息を交換するようなキスにきっと次はない。少なくとも、伏黒はこれを最初で最後にしようと思った。ただキスをしただけの夜になる。わざわざこんな辺鄙な場所に来たのにも関わらず、五条と伏黒の関係はこれ以上進まない、そんな夜だ。それでもどこか気持ちがすっきりとしているのは、この3日間があったからだった。伏黒の為だけに与えられた伏黒と五条のことしか考えなくていい、誰にも言えない3日間。
震える舌先で五条に応えれば、それは許されて少しだけ瞳の奥が熱くなった。
この町を出るためにスマートフォンで経路を調べて、初めて駅があることを知った。当然名前も聞いたことがないその駅は、辿り着いてみれば酷く寂れた無人駅だった。この駅は日に数本しか止まらないけれど、運良く次の電車が来るまでにそう時間はかからなそうだった。ホームに屋根もなくて目の前にあるのは少し遠くなった海と街並み。この街の名前はきっともう思い出すことはなくて、行き方を調べることも無い。何かを捨て置いて、気持ちの整理をつけるのにも丁度いい街だ。
伏黒にとって優しさの定義は五条と津美紀だった。五条と津美紀以外に優しい人がいるのも知っている、もっと優しい人がいるのも知っている。優しいからといってなんでもしてくれるわけじゃないのも、優しさが万能でないことも知っている。それでも伏黒は今の五条との関係を優しさからくるものだと、そう解釈した。遠くからの潮風はじりじりと熱光線に焼かれる身には心地よかった。今にも崩れてしまいそうなすっかり老朽化の進んだベンチ。そこに並んで腰掛けて、ぼんやりと考える。
五条は伏黒の好意を知っている。それこそ何年も前から。だから今の関係がここにあるのだが、その関係には常に違和感が付き纏っていた。いつだって伏黒が五条を見上げればサングラスの隙間から柔く細められた瞳が見つめ返してくれたけれど、手を伸ばして触れようとすればそれはやんわりと止められてしまう。触れるのはいつだって五条からで、伏黒から触れられたことはない。キスひとつだって、伏黒が望めば与えてくれるけれどその逆はない。伏黒が望んだ時にだけ、五条だけが飛び越えられる一線があるのだ。
美しいフィクションの世界では、浮かれたノンフィクションの世界では、即物的な触れ合いだけが愛ではないという。もっと見えない繋がりがあるのだという。しかしそれはお互いの持つ感情が同じであればの話だ。隣で溜まったメールに目を通している五条を見る。五条からしたら伏黒なんて子供で、そのどうしようもない子供の我儘に付き合ってくれているだけなのだ。あの時五条が好きだと瞳で訴えてしまったばかりに、応えてくれたと喜んでしまったばかりに、この歪な関係は今日まで続いてしまった。愛と優しさは違う、子供は大人にならなくてはならない。そう気付いてしまえばもう五条の優しさにいつまでもおんぶにだっこではいられなかった。
五条越しに貨物列車が向かってくるのが見えた。ぐんぐんと迫るそれは直ぐに大きな音と風と共に2人の前を通過する。まだ尻尾の見えない貨物列車。それが起こす風に煽られながらこの3日間を思い出せば、星が瞬くように一瞬の煌きが走馬灯のように駆け巡る。目が回るほど忙しいのに伏黒の為だけに用意してくれた5日間(現実は3日間だけだったけれど、それだって凄いことだ)。伏黒の為に時間も金も何もかもを費やされた贅沢な日々。見慣れなくて、でも2度目はない寂れた街の風景も、この街の人間しか知らないだろう海鮮丼の味も、何十年前からあるのか分からないコインランドリーと駄菓子屋も、身体の大きい五条と一緒では少しだけ窮屈な旅館の一室も。何もかもがひと夏だけの蜃気楼のようだった。いつもの日常に帰れば3日と経たずに遠い昔の話のようになってしまうに違いない。それでもきっと、昨夜のキスを忘れることはない。あの触れ合いだけが確かなものだった。遠く彼方に貨物列車の終わりが見えた。思わず呟く。
「…大人に、なりたくないな」
列車が走る音にかき消されたと思った言葉は意味までは届かずとも五条に聞こえてしまったようで、携帯電話から視線を持ち上げた五条がなんか言った?と振り向いた。
「…いや、」
なんでもないと言いかけて躊躇う。
五条が面倒を見てくれるのは春に入学する呪術高専を卒業するまでだ。そこが面倒を見てもらえる子供でいられるタイムリミットだけれど、その日までずっと五条の手を煩わせようとも甘えようとも思えない程度には伏黒は少し大人になってしまった。この3日間はこの関係の成り立ちに気付くいいきっかけで、大人に近付くいいきっかけで、そして多分今が一番いい区切りだった。
ごうっ、と一際大きな音を立てて貨物列車の最後の車両が2人の前を通り過ぎる。途端に静かになった駅のホームで努めて平静に、女々しくなどならないように口を開く。
「今までずっと、付き合ってくれてありがとうございました」
じっとこちらを見る五条がどんな顔をしているのか、サングラスに阻まれて分からないが、ああやっとかと安堵しているのかもしれない。この形だけの恋人のような関係を五条がどう思っていたか、伏黒は知らないのだから。聞いたこともなかった。
「もう、大丈夫です。…丁度来年からは五条さんが担任になるし…少し早いですがこれからは先生と生徒でお願いします」
食い下がってもらえるとは思ってないけれど、ほんの少しでも寂しいと思ってくれればそれ以上のことはない。それすら、傲慢だろうか。
「…ん、分かった」
少し間があってそう返事をくれた五条の表情は、やっぱり読めなかった。
_____
しくった、そう思った時にはもう眼前に呪霊がいた。瀕死の傷を負いながらも迫ってきたそれに一瞬反応が遅れて、無防備な自身を晒すことになる。人が醜く崩れた形をした目の前のそれは、口のようなものを大きく広げた。その口の向こうには呪霊の姿には似合わない、透き通るような真っ青な瞳が一つだけあった。いやに見覚えのあるその美しい瞳と目が合ったのも束の間、伸びてきた舌先は無遠慮に伏黒の左側の瞳を舐め上げた。粘ついた嫌な音にやっと身体が動き出す。
「っ、玉犬!」
舌先を振り払ってそう叫ぶが早いか、玉犬が2匹で呪霊の喉元と胴体と思しき所に飛び付いてとどめを刺す。声にならない叫びを上げた呪霊はもう動くことも叶わず呆気なく玉犬達の餌になった。
ぜいぜいと肩で息をしながら舐め上げられた左目を手の甲で拭う。そう手強い相手ではなかった筈だ。あんな深手を負った相手に懐に入れられる程、自身の経験が浅いとも思っていない。きっと五条だってある程度それを見越してこの任務を伏黒に任せたに違いない。じゃあなんで、自分はあの場でまるで関係ないことを思い出してしまったのだろう。何ヶ月も前のことで、思い出さないようにしていたのに。一瞬動きが遅れたのはそれが理由だった。
もう一度左目を手の甲で擦る。呪霊の命が尽きると同時に舐め上げらた瞳の粘ついた感触はなくなった。それなのにどうしてか熱を持って仕方ない。
呪霊を片付け終わり近寄ってきた玉犬が不安げに伏黒を見上げる。
「俺は大丈夫だ。よくやった」
かがみ込んでそんな2匹の頭を撫でてやれば途端に嬉しそうに目を細める。式神だというのに随分と本物のような2匹は触れば温度はなくとも毛の柔らかい感触はするし、仕事を終えればちゃんと伏黒の元に帰ってきて頭を寄せてくる。ある程度労ったところで2匹を影の中に戻すと、それと同時に今までどこに行っていたのか五条が伏黒の近くに降り立つ。ちらりと周囲を見渡して満足気に頷いた。
「こんくらいなら1人でも平気そうだね」
しかしその後に、でも、と付け加えた。大股で目の前にやってくると伏黒の左頬に触れた。親指の腹で左目の下を軽くなぞる。
「ちょっと油断したでしょ」
五条に触れられるのなんて夏以来だった。そこに如何なる意味も無いとしても、それだけで伏黒の身体は動きを止める。上手いこと頭の片隅に追いやれていた筈なのに、隠していた未練がどこからか顔を出すようだった。
「呪われてる」
呪霊の唾液が垂れた辺りを指先が撫でた瞬間、かっと左の目が熱を持つ。その熱を発端に夏のことが頭の中を過ぎった。じりじりと肌を焼く太陽光線、生ぬるい風、人のいない海、そこに置いていった色々なもの。持ち帰ったもの。あの日伏黒の手を縫い止めた五条の手はひどく熱かった。
左目の熱がぎゅうと纏まって雫になる。
「……え、」
伏黒の左目だけから涙が零れ落ちて五条の指先を濡らしていた。どこか痛いのでも苦しいのでもない、伏黒の意志とは関係なく勝手に溢れ出すのだ。それが五条が言っていた呪いなのだと気付くのにそう時間は掛からなかった。左の頬だけ濡らしていくそれを1度拭った五条は「ほら、やっぱり」と言ってからポケットから取り出したスマートフォンでどこかへ連絡を取り始めた。伏黒が押し隠していた未練を燃料にするように左目だけを満たす熱は涙という形になって次から次へと押し出されていく。おそらく高専の誰かだろう。伏黒はそこに連絡している五条をぼんやりと見ながら事前に渡されていた資料を思い出していた。
__________
sideG
「…ふぅん、今は落ち着いてるんだ」
五条の言葉に受話器の向こうにいる家入が「もう殆ど消えかかってる。明日いっぱいだろう」と言った。
つい一昨日のこと。伏黒が呪霊との戦闘中に軽い呪いを受けた。高専に正式に入学する前に、形としては五条の任務ではあるが伏黒1人での呪霊討伐を行った。あくまでも伏黒の今の時点での実力を測るためのもので、普段ならまず五条には回ってこない程度のそう難しくないものだ。その任務をこなす様子を少し離れた所から見守っていたのだが、途中までは五条が思っていたよりもずっと順調に祓い続けていたのに、最後の1匹になって一瞬反応が遅れた。その一瞬の油断で呪われてしまったのだが、しかし不幸中の幸いか、伏黒が貰った呪いは呪霊の強さ同様にそう強力なものではないらしく数日もすれば自然と消えるものらしい。涙も五条が任務に出掛けた昨日頃から止まり、今は入学したら伏黒の部屋となる予定の寮内の一室で静かに過ごしているのだという。
「ま、軽いもんでよかったよ。恵にもいい勉強になったでしょ」
『随分とあっさりしてるんだな。大層可愛がっていたからもっと慌てるかと思った』
「…別に、特別可愛がってるわけじゃないし」
『ふぅん』
電話の向こうで家入がくつくつと笑う。なんだか胸の内を読まれているようであまり気分のいいものではなかった。本当は呪いが解けるまでもう少し伏黒の面倒を見てやりたいけれど、もうそれが出来る関係でもない。そう重篤でもないのに、教え子1人のためだけに他の仕事を投げ出して何日も時間を割くのは正しい教師と生徒の関係か、少なくとも五条の中では否だった。
家入が言うには五条が仕事から帰る明後日には元に戻っているらしい。昨日から五条が呼び出された仕事は幸いにも高専からそう遠くない。このまま予定通りに終わらせてから迎えに行けば丁度いいだろう。
『まぁお前たちの仲がどうなっても私はいいんだが、一応いいことを教えておいてやろう』
「なにそれ」
『昨日、伏黒が自販機で大納言しるこを買っていたぞ』
「…は?」
とりあえず明日には帰ってきた方がいいんじゃないか、そう言い残して五条が意味を聞く前に通話は切られてしまった。
高専の中にある自動販売機には五条のリクエストで一つだけ大納言しるこが入っている。飲むのも基本的に五条だけで、少なくとも伏黒はまず飲まない。わざわざ五条の為に買ったのでもないだろう。それじゃあ、何故わざわざ飲まないものを買ったのか。そして家入はそれを五条に伝えたのか。通話の切られたスマートフォンを手に首を捻る。
呪いが関係しているのかと思ったが、あの呪いは人に甘いものを食べさせるとかそんなファンシーなものではない。あの呪霊の生まれた場所、理由に起因してあれは呪いを受けた人の中の未練を勝手に増幅して涙という形にするものだ。受けた本人に未練がなければ特に害などないが、しかしあの場所で未練の無い人間など稀だ。だから被害は小さいにしろ、勝手に涙が出てくると訴える人間が多発したから依頼が来たのだ。
伏黒が赴いたあの場所は決して恋が実らないという噂のあるスポットだった。雑誌やテレビでは特集されることはなく、SNSや世間話などでまことしやかに囁かれ続けている場所。都会から少し電車に乗れば行けるその小高い丘は、街々を見下ろす景色が意外と綺麗で愛の告白をするにはそれなりに雰囲気の出る場所だった。しかしここに雰囲気とは真逆のジンクスがあるとは知らずに告白をして実らなかった人、知っていてここで成就を阻止した人、された人。そんな色々な悲しみやら何やらが積もり積もって生まれたのが、伏黒が呪いを受けた呪霊だ。その生まれた経緯や場所に渦巻く感情に起因して、あの呪いは今伏黒の中にある未練を勝手に形にしている。
「………ん?」
あの夏で五条と伏黒の恋人の紛い物のような関係は終わった。それ以降に伏黒が誰か他の人間に惚れたのなら呪いが発現したのも分かる。しかし夏以降も何かと任務に同行させたり稽古をつけたりとよく会いには行っていたが、その中で伏黒の人間関係が変わった気配も誰かと懇意にしている様子もなかった。上手く隠し通していたと言われてしまえばそれまでだが、少なくとも五条の記憶の中では伏黒に愛だの恋だのの気配なんてまるで感じなかった。
なのにそれじゃあ、どうして。
自惚れだとか傲慢だとか、気の所為だとか。そう一蹴されるかもしれないが、家入が言い残した五条だけしか飲まない大納言しるこがそれに拍車をかける。幸いにも今いる場所から高専はそう遠くなくて、本来は明後日で帰る予定ではあったけれど殆どのやることは終わっていて予備日のようなものだった。本来は明後日までだが、明日で切り上げたって問題は無い。その都合の良さはまるでちゃんと話をしろと、思うことは無いのかと、誰かが問い掛けているかのようだった。
思えばあの日に二つ返事で了承したのは、全て自分のためで伏黒とちゃんと話はしたことがなかった。
_____
もう大丈夫だと言われた時、遂にかと思った。元々この関係は終わりのある関係だと思っていたが、その終わりが五条が思っているより早く訪れたのだと。
時が経てば経つほど伏黒に隠している罪はその存在を大きくしてゆく。小さい伏黒が抱いていた気持ちに永遠を感じれるほど、五条が隠していることは小さくはなかった。いつか伏黒が五条の手を振り払ったとて、無知な子供がものを知ったことにすればいい。世界を知って五条が本当は優しい人間などではないと知ったことにすればいい。この関係の終わりを考えることの全てが一生付き纏う罪を五条の中から覆い隠す、都合のいい言い訳でしかなかった。伏黒の好意に乗っかって恋人みたいな関係を続けながらも常に言い訳と予防線が張られていた、歪なものだった。
いつかきっと寂れたままに無くなってしまうこの街は、そういう終わりに丁度いい街だった。ホームの向こう、少し遠くにある海は五条の罪までは食えなくとも、2人の関係くらいは綺麗に丸ごと食べきってしまってくれるといい。本当は自分のした事を一瞬だけ無かったことにしてしまいたくて、なんのしがらみもない身軽な振りをしたくて、どこにでも行けるのだと思い込んでみたくて、駆け落ちの真似事をした。伏黒を気遣ってのことに嘘はないが、その裏には五条のそんな浅はかな思いがあった。伏黒に出会うにはこれまでの全ては必須だが、それがなければきっとこの気持ちに後ろめたさなんて感じなかった。素のままで、何も考えずに伏黒のことを好きだと言いたかったのだ。そんな浅はかな五条の思いも、この海が食べきってくれたらいい。
「…少し早いけどこれからは先生と生徒でお願いします」
そう言って軽く頭を下げてみせた伏黒は遂に大人になってしまった。子供の成長は本当に早い。どうせ終わると思いながらも甘い夢みたいだった日々はあっという間だった。未練がないと言えば当然嘘になる。伏黒がずっとものを知らない子供のままでいてくれたらどれほど良かったことか。
「…ん、分かった」
なにか一言でも気の利いた言葉が言えたらよかったのだけど、未練たらしい言葉が出そうで何も言えなかった。
この子に罪の告白を出来なくなった瞬間から、もう愛していたのだと気付いたのはいつだったか。顔を上げた伏黒が真っ直ぐに五条を見る。海風に煽られる黒髪で表情の全ては見えなかった。
_______
sideF
がこん、と鈍い音を立てて取り出し口に缶が落ちてくる。一昨日飲んでうんざりして、昨日もやっぱり飲んでうんざりした筈なのに、また懲りずに買ってしまった。なんだか伏黒の中の未練を象徴しているようで嫌になる。普段なら絶対飲まない大納言しるこは、昨日と同じ顔をして伏黒の手の中に収まった。取り出したばかりでまだ熱いそれは、左目の熱とひどく似ている。五条が出張でいなくなってからぱたりと涙は止まってしまったが、じんじんとした熱は今も変わらない。家入が言うには今日いっぱいで呪いは解けるだろうと言っていたからそれまでの辛抱だ。この熱が収まってしまえば、もう飲むだけで一苦労するこんなものを買わなくて済むのだろう。伏黒にかけられた呪いは受けた人間の未練を増すものだというから、こうして1日1本律儀にしるこなんて買ってしまうのはそれのせいに違いなかった。わざわざ五条が好みそうなものを買ってしまうなんて、呪いのせいとはいえ女々しくて仕方ない。最初から五条のことを好きだったのなんて自分だけだったのに。優しさに甘えていただけだったのに、未だにもしもを考えるなんて。
「恵じゃねーか」
深い溜息を吐き出して自室へと戻ろうとした時、不意に声をかけられた。まだ入学もしていない自分を知っている人間は限られている。一体誰だと声のした方を振り向けば薙刀を持ったジャージ姿の真希がいた。
「…お久しぶりです」
「珍しいな。ここに来るの」
ジャージのポケットから小銭入れを取り出した真希はさして興味もなさそうに問い掛けながら自販機の前へと立った。指先がいくつか並んだ自販機を指しながらあちらこちらへとさ迷ったのも一瞬のことで、すぐに目星のものを見つけたのか伏黒の斜め前にある自販機へと小銭を入れていく。
「ちょっと呪いを受けてしまって、消えるまではここにいさせてもらうことになりました」
「あー…じゃあ悟もここにいんの?」
「いや、出張でいませんけど…今の話に先生関係ありました?」
スポーツドリンクを選んだ真希は、取り出してすぐにそれを開けながら「だってあいつ可愛がってたじゃん。恵のこと」と言った。その言葉に何か別の意味も含まれているような気がして首を傾げる。
きっと五条は五条なりに伏黒と津美紀のことを可愛がってくれていた。けれどそれは教え子として、面倒を見てもらっている立場としてのもので、それ以上でも以下でもない筈だ。今となってはわざわざ数日開けてもらえる程の関係でもない。
腑に落ちないという顔をしている伏黒を一瞥して真希は半分ほど一息にペットボトルの中身を呷った。
「前に禪院で会った時、悟がお前にべったりだったからさ。それなりに大事にしてんだなって思ったんだよ。うちの連中が何するか分かんないってものあるんだろうけど」
五条に連れられて何度か禪院家に訪れたことがある。一番近い記憶で中学三年の夏前頃だったろうか。何度訪れたって二人のことを歓迎する空気などではなくて、あまり気分のいいものでもなかった。真希の言う通りの理由か、思い返せば常に五条が近くにいた気がするし、なんなら離れるなとも言われていた気がする。大本を辿れば禪院の人間であるのにも関わらずそこに属しない伏黒、大昔のしがらみもあって良く思ってはいない五条家の人間、そのどちらの意味でもそれ以外の意味でも視線がよく突き刺さったものだった。
しかしその時の事を、他人から見たら大事にされていると映るのかと少し意外な気持ちになる。
「…そう、ですか」
「ま、いつまでも子供じゃいらんねーし、いなくてもおかしくねぇな」
その言葉に呪われてしまった左目が更に熱を持つようだった。あの日にちゃんと五条との関係は捨て去って一新した筈なのに、今こうして呪いが発現するということは捨て切れていなかったということだ。この後に及んでまだ子供のふりをして五条の手に甘えたいと思っている。情けなくて仕方ない。五条があんまりにも優しくしてくれるから、我儘になってしまう。今も好きだと言ったら、もう一度真似事をしてくれるだろうか、だなんて。
上手い返しが見つからずに黙り込む伏黒に、真希がにやりと笑ってこちらを見た。
「そういや、どんな呪い受けたんだよ」
「どんな、って…」
まさか素直に色恋の未練が云々と言う訳にもいかず言葉に詰まる。目の前に五条がいない限りは見た目には何も変わりがないが、だからといって上手い言い訳が咄嗟に出るわけでもない。どう返したものかと考えあぐねていると、不意に真希の表情が苦虫でも噛み潰したようなものへと変わった。
「…いや、その話はまた今度でいい」
「……あの、?」
急にどうしたんだと立ち尽くす伏黒をよそに真希はひらりと手を振った。
「面倒に巻き込まれたくねーし。それ、悟にやったら喜ぶんじゃねーの」
「…は?」
長いポニーテールを揺らしてグラウンドの方へと向かった真希は伏黒の返事を聞く気はないらしく、振り返ることも無くさっさと立ち去ってしまう。去り際の一言だけがその場に残されて、唐突に話を終わらせた真希の行動に首を捻るしかない。手に持ったままのしるこを渡したら喜ぶだろうとは言うが、渡す相手はここにいないし渡す理由もない。余計に疑問が募るだけだった。
話し相手もいなくなってしまった今、いつまでもここにいる理由もない。昨日に引き続いて甘ったるくて飲むのも一苦労なこれを消費しなくてはと、伏黒は真希とは反対方向へと踵を返した。
「恵!」
その声に、知らず足元に落ちていた視線を弾かれたように持ち上げる。見なくても分かる声を認識した瞬間、伏黒の意志とは関係なく左目の熱が勝手に涙へと形を変えていく。気がつけば伏黒から数メートル離れた所に五条がいて、真希が話を切り上げた理由をそこで察する。伏黒の向こう、校舎の窓あたりにこちらへ向かう五条でも見えたのだろう。面倒に巻き込まれたくないとは五条の日頃の行いからに違いない。しかしそれよりも、今日はまだ出張だった筈なのに何故。
思わずじり、と1歩後退りするも大股でやってきた五条にすぐ追い付かれてしまう。五条が缶を握り締めたままの伏黒の手首を掴んだ頃には再び形となった呪いが左の頬を濡らしていた。
「せんせ、」
「なんでこれ買ったの」
伏黒にはこの手を振り払おうなどという気はなかった。どんな形であっても五条に触れられるだけで未練がましくこの身体は動きを止めてしまうのだ。
「真希と話してる時は泣いてなかったのに、何で今は泣いてるの」
伏黒が答えられないでいる間に次の言葉が重ねられて、缶を握る手に力が籠る。目隠しに覆われて五条の表情は読めない。五条が好むものを手にして、五条の前でだけさめざめと泣く。こんなどうしようも無い姿に呆れているのか苛立っているのか、それすらも分からない。
言葉の出ない伏黒の返事を待たずに、手首を掴んでいた手が今度は缶と一緒に伏黒の手を包み込む。血の気の引いて冷えきった手にはその温度は熱すぎるくらいだった。
五条の顔を真っ直ぐ見れなくて足元に落とした視線の先では、なにか見えない一線があるように2人のつま先の間には距離があった。じくじくと熱さで痛む左目と、五条に掴まれて逃げられないこの状況と、なんて返せば五条の手を煩わせないかと。考えることが一度に押し寄せてなにも纏まりやしない。ただただ涙だけが言葉の代わりによく落ちた。
「…ねぇ、」
ひとつ息を吸い込む間があった。
「恵は僕のこと、まだ好きなの…?」
「…そ、れは」
違うと言えればよかった。しるこの缶を買ったのも間違えてしまったからで、今泣いているのもタイミングが偶然そうだっただけで、伏黒が抱える未練は他にある。そう返すことが出来ればよかったのに、五条に嘘が付けない頭は馬鹿正直に返してしまう。呪いが解けてしまえばこんな叱られた子供みたいな真似をしなくて済むのに。掴まれていない方の手で乱雑に涙を拭った。しかし何度手の甲で擦っても呪いはしっかり仕事をしてしまう。
「…すみ、ません…ちゃんと、捨てられたと思ってたんです、」
拭っても拭っても追いつかなくて、本当は今すぐこの場から立ち去ってしまいたいけれど触れる五条の温度が勿体なくて出来なかった。そんなところも卑しくて嫌になる。
「五条先生に、…もう、迷惑かけたくないから…」
「…迷惑、って」
涙ですっかり濡れてしまった手も掴まれてしまって、覆い隠していた視界が顕になる。左側だけ不格好に霞んだ視界の中で、伏黒の顔を覗き込むようにしゃがみ込んだ五条と目が合った。いつの間に目隠しを首まで下げたのか、息を飲むほど綺麗な瞳が伏黒を見ている。
この瞳があの日は見えなかった。目は口ほどに物を言うとは言うが、それは案外真実だ。少なくとも今の五条の表情は伏黒に呆れているのでも苛立っているのでもない。戸惑いと、緊張がそこにはあった。
「迷惑なんて思ってないよ。…だって本当はあの日、別れたくなかった」
「っじゃあ、なんで、」
あの時そう言ってくれなかったんだ、とは言えなかった。あの日あの時、五条が食い下がってくれればと願った。ほんの少しでも関係の終わりを寂しいと思ってくれればと我儘なことを思った。けれど五条がこの関係をどう思っていたのかなんて分からないから、その気持ちは墓まで持っていくつもりだったのに。なんだって今更そんなことを言うのだろう。それが気休めの優しさだとしても嬉しくて、仕方ないのだからどうしようもない。
五条が一瞬何かを言い淀むように言葉を詰まらせて、それから口を開いた。
「いつか恵は、成長して…僕のことを好きじゃなくなると思ってたから、…あの時がそうなんだって、思って……」
左目が焼けるように熱い。涙も勢いを増して、頬を伝って首を伝いシャツの首元を濡らし始めていた。
五条がいや、と伏黒の腕を掴んだまま項垂れる。
「…全部言い訳。大人になったら終わるもんだと思ってたから、ずっと準備してた。でも、恵にこんなこと言わせるつもりじゃなかった」
五条の言葉を反芻して、回らない頭で考える。どうして大人になったら五条のことを好きじゃなくなるのだろう。少なくとも小学生の頃から今まで、この気持ちに変化があったことなんて1度もないのに。夏の初めの最後にしたキスが本当は涙が出るくらい嬉しかったことを、五条はきっと知らない。
全てのことの始まりは津美紀が林間合宿で不在だった日の夜だった。ずっと光がちらついて寿命が近かった蛍光灯がとうとう駄目になってしまって、お互いの顔が見えないままに話をした。思えば大切な話をする時にはいつもお互いの顔がよく見えていなかった。あの時にちゃんと五条が言う好きの意味を聞いておけばよかった。浮かれる前にちゃんと話をすればよかった。次の日の朝にだって顔を見て話す時間はあったのに。小学生の頭にそんなことを思っても仕方ないのは分かっているけれど、今になってああすればよかったこうすればよかったと昔のことが頭をよぎる。
「…なんで、俺が先生のことを好きじゃなくなるのか分からないですけど、」
とうとう鼻水まで出てきてすん、と鼻をすする。
「俺の気持ちがあの日も今も変わらないなら、…それが答えじゃ、駄目なんですか」
好きだとか愛してるだとかなんていう気持ちがどういうものなのか、具体的な答えは今だって分からないけれど、未だに変わらないそれがそうならいい。伏黒にその変わらない気持ちがある限り五条があの関係を続ける気でいてくれるのだとしたら、そこにどんな意味があったっていい。惨めに泣き腫らす可哀想な人間に手を差し伸べる慈善でもいい、この場を収めるための方便でもよかった。好きな人間に優しくされて、それがどんな形であっても嬉しくないわけがないのだ。
「…俺の気持ちは変わらないから、情けでもいいから、…また…っ、」
ぎゅうと伏黒の手を掴む五条の手に力が込められて、それが離れたと思ったら立ち膝になった五条に抱き締められていた。思わず手から缶が落ちてコンクリートの地面にぶつかる音がした。そういえば今までに抱き締められたことはあっただろうか、なんて関係ないことを考える。
「情だけでこんなに優しくするほどいい人じゃないよ、僕」
「…こんなに優しい人、知らない、です」
「いずれ知ってくよ。そのうち呆れて幻滅して、顔も見たくないってなるかも」
「でも、じゃなかったら、…なんで」
「恵のことが好きだからだよ。好きだからずっと恵の気持ちに乗っかってたし、自分のための逃げ道を用意してたし、…それで今すごく後悔してる」
ぎゅうぎゅうと抱き締める腕の強さに胸が締め付けられて、けれどそれが五条の言葉が嘘ではないという証明のようだった。五条は自分のことをそんな優しい人間ではないと言うけれど、今こうして話をしてくれるのだからやはり優しい人間だ。線引きをしろと幼い伏黒に教えたが、その線引きの中で五条を善人として区別したのは間違いじゃなかった。
だからやっぱり、好きなのだ。伏黒の為にこうして後悔をして、話をしてくれて、夏休みに合わせて休みを取ってくれて、自分たち姉弟の為にお菓子を買ってきてくれて、こんなにも臆病になる五条のことが。たとえ五条が本当に善人じゃなくてもきっと好きなことには変わりない。憎んだってきっとそれは変わらない。好きだとか愛してるだとか、その具体的な形も答えも分からないが、これが愛じゃなかったら何が愛なのだろう。
「…抱き締めて、いいですか」
五条に触れようとすればやんわりと止められてきた。伏黒が求めた時には触れてきたくせに、伏黒から伸ばす手はいつだって躱すのだ。今まではそれがこの関係が紛い物だということを暗に伝えているようだったけれど、本当は五条が言ういつか伏黒が愛想を尽かした時の為の逃げ道なのだとしたら。もしそうならこのまま触れてしまったら、この関係は本物になってしまうのではないか。そんなことを考える。背中に手を回すだけなのに、そこには大きな意味があるような気がした。
けれど五条の返事は早かった。
「いいよ」
少しの間も開けずにそう返事が返ってきて、おそるおそるその背中に手を伸ばす。右目も熱くて、その熱がぎゅうと丸まって雫になる。そんな段階になってようやくここが自販機の置かれた外で、屋根があるとはいえいつ人が来てもおかしくない場所なのだと思い出す。視界の端では大納言しるこの缶が転がっていて少し間抜けだった。人に見られたらなんと言い訳をしよう、とは思うけれど手のひらに触れた五条の背中にそんなものは吹き飛んでしまった。
初めて触れた五条の背中は伏黒が思っているより大きくて、でも子供みたいに小さかった。
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sideG
缶の端が不格好に凹んだ大納言しるこの缶はすっかり冷め切っていた。一先ず1度部屋に帰ろうかと伏黒の手を引けば素直に握り返されて、きっと自分はこの手を二度と離せやしないのだろうと確信にも似た何かを思う。
あの日、抱いてくれと流れ着いた港町で伏黒がそう告げた時。ついにこの時がきてしまったと五条は胸の内で静かに震えた。喜びが半分と、逃げ出したいという気持ちが半分とで。やがて五条から目を離すことなく部屋の電気が消されて、この言葉が半ば自棄ではあろうがただの冗談ではないのだと理解もしてしまった。
暗くなった部屋で向かい合って、まるで津美紀が林間合宿でいない日の夜みたいだった。大事な時にはいつもお互いの顔がよく見えないことに、後になって気がつく。伏黒がそう望んでいるから。そう言い訳をして頬に触れて首筋を辿り、早鐘を打つ心臓の辺りに触れた。月明かりに照らされて見えてしまった耳まで赤い顔に、これ以上は駄目だと脳が警鐘を鳴らしたのだ。どうせ伏黒も本当に抱いてもらえるとは思っていない。けれど真似事はできる。だがそれをしてはならないとなけなしの理性が止めた。伏黒の指先が五条に触れて、その手が縋るように背中に回されて、そんなことになったらきっと五条は伏黒のことを手放せなくなる。だからずっと与えるだけ与えて伏黒からは何も受け取らないようにしていたのに。
伏黒が伸ばす手を布団に縫い止めて、そうしてこれが最初で最後の夜にしようと思った筈だった。今日はの次も、一先ずの先も、来ないようにしようと思った筈だったのに。案外早くその次は来てしまった。
結局この子に甘えて罪の告白など出来ないままだったけれど、いつか隠していることを伝える勇気が出てきた時、五条に愛想を尽かしてもその手は離してやれない。愛と呪いは紙一重だ。
「ね、恵」
「…なんですか」
「わざわざこんなの買うくらい寂しかった?」
「……たぶん、もう二度と買わない…と、思います」
「そっか」
冷め切ったしるこはいやに防腐剤やら添加物やらの人工的な味が目立って美味しくはなかった。しかし忘れてはならない味だった。
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