薄明

ごじょうさとる×ふしぐろめぐみ
 非公式二次創作ブログサイト

メイン

2026年1月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

喜びも悲しみもさぁお手を拝借
柊英です


「いや、これはですね…」
 そう言い訳する声はどんどん小さくなる。目の前のテレビでは女の子達の歓声と可愛らしいポップな音楽が流れている。そしてそれに重なる、まだ声変わりをしていない柊羽の歌。悪いことをしているわけではないのだけど、柊羽も壱星も壱流もいない今のうちにと共有ルームの大きいテレビで見てしまったのがいけなかった。悪いことをしているわけでもないし、柊羽も機嫌を悪くしているわけではない。ただ英知が勝手に居た堪れないのだ。見るならファンの子達のようにペンライトを持って全力で楽しみたいと思っていた。いつも自室で見る時はDVDプレーヤーの大きいとは言えない画面しかなく、それに物足りなく思っていた矢先に共有ルームが英知1人になって。ああ、とテレビから落とした視線を更に落とせば柊羽のメンバーカラーにペンライトがせっせと光っていた。
「ちょっと、元気をもらおうかと…」
「元気」
「元気になる、おまじないと言いますか、なんか元気を貰えまして…」
 今の柊羽に不満があるわけでも一緒にいて疲れるわけでもないのだけど、まだ成長し切っていない身体で目いっぱいステージの上を駆け回って、これからまだ成長と共に伸びるであろう腕を更に必死に伸ばして手を振って、屈託のない笑顔を振りまく柊羽を見ていると元気を貰えるのだ。きっと英知のファンの子達が言う「堀宮くんを見ていると元気になります」という言葉はこういう意味なのだろう。
「なるほど、英知は昔の俺に元気を貰っていたのか」
「いやもう、ほんと、改めて言われると恥ずかしいというか、居た堪れないというか」
「居た堪れないのは俺の方な気もするが」
「その通りですね…」
 画面の向こうで幼い柊羽が大好きです!と叫んでいた。この時の笑顔がまた少しの照れを乗せていて可愛いのだ。もう何度見たか分からない映像が脳裏に浮かぶ。
「っふふ、」
 ふと隣から笑い声が聞こえて顔を上げて見れば柊羽がもう我慢出来ないというように肩を震わせていた。
「俺は気にしていないからそんな顔をしないでくれ。恥ずかしい映像でもないし、そもそも俺が英知を元気づけられているなら良いことじゃないか」
「そういうもの…?」
「そういうものだ。…ああでも」
 柊羽の目が緩く細められて、ペンライトを強く握る英知の手元を見た。その視線が何を意味するのか、それを考える前にQUELLの和泉柊羽とは違う色をしたペンライトが取り上げられてしまう。それはあっさりと電源を落とされると柊羽の背中へと隠されてしまう。横目で見たテレビの向こうでは柊羽だけではなく他のメンバーもステージへと上がっていて、英知が好きな歌を歌おうとしていた。たくさんのメンバーがいる中で柊羽が与えられたソロパート。そのフレーズが英知は好きだった。
「握るのならペンライトじゃなく、俺の手にしてほしいな」
 そんな大事そうに抱えられると少し妬けてしまう、そう柊羽が告げて英知の手を取った時。英知の耳に柊羽の今より高い歌声が届いた。疲れた時も悲しい時も手を繋いで分け合えばいい。
「…俺の心を読まないでくれます?」
「長い付き合いだから分かるだけさ。少しは俺にも分けてくれていいんだよ、英知」
 敵わないと柊羽の手を握り返せば画面の向こうではタイムスリップした柊羽が眩しい笑顔で英知に手を差し伸べていた。

畳む

編集

幾年昔の自分へ
柊英です


「英知」
 名前を呼ばれて振り向けば、お得用コーナーの前で柊羽が立ち止まっていた。眼鏡にマスクをしていたって柊羽にはミスマッチなそこには、英知が長いこと愛用している薬用リップが売られていた。なるほど、柊羽が声を掛けてきたのはそういうことだったのだ。しかし安物のリップを持っている柊羽はやっぱり似合ってないけれど。
「俺が愛用してるやつ!ありがとう、よく分かったね?」
 ああそういえば今使っているので最後だったなと思い出して、柊羽が差し出してくれたそれを受け取って買い物かごへと落とす。
「いつも持ち歩いているだろう。見覚えがあったんだ」
 ADの時より収入は増えた筈なのだからもっと良いものを使ってもいいのだけど、変えるタイミングもないまま今でも同じものを使っている。3本セットのお得用でたまに特売品として殊更安く売られているそれは、大昔にとりあえず荒れた唇をどうにかするために買った日から変わらないデザインでそこにあった。効果がどうとかそういうことは考えていないのだけど、昔と変わらないそれを使っていると、今がどんなに昔の自分が想像もしなかった未来なのだとしても、夢じゃない気がする。今がしっかり過去と繋がった地続きの未来なのだと思える気がするのだ。1つでも変わらないものが身近にある、それはちょっとした安心感になる。
「そっかぁ、なんか嬉しいな」
「嬉しい?」
「なんか俺が使ってるものを柊羽が知っててくれてたのが嬉しい、というか…なんだろ、俺が好きなものを柊羽が知っててくれて嬉しい、みたいな感じ」
 眼鏡の奥で柊羽がぱちりと瞬きをして、それから擽ったそうに笑う。
「前に英知が壱星と壱流に言っていただろう。2人の好きなものを探すのは宝探しみたいで楽しい、と。俺もそれと同じように英知が好きなものや愛してるものを探すのが楽しいんだ」
 英知が愛してるものを、俺も一緒に愛せたらいいなと思うんだよ。そう言って柊羽は英知の手からかごを奪うと、言葉を返せずにいる英知をその場に置いてレジへと歩き出してしまった。そんなの俺だって!そう叫び出しそうになるのを堪えてから柊羽の後を追えば、今にも会計が始まりそうなかごの中には柊羽が見つけてくれた英知が愛用するお得用リップと、英知が見つけた柊羽が気に入っているハンドクリームが転がっていた。
 
畳む

編集

幸福論
柊英です


「幸せって、なんだろうねぇ」
 真っ青な空には大きな白い雲が描かれていた。9月の初め、夏の終わりのはずのこの時期はしかしまだ夏を色濃く残していた。例年になく暑かったその温度は、9月になってもまだそこにあった。まだうっすらと背中に汗が滲む。雲を流す風は同じ様に寮のベランダに佇む英知と柊羽の髪を撫でていく。
「どうしたんだ、いきなり」
「いやー、ちょっと物思いに耽りたくなっちゃって」
 壱星と壱流に追い出される形でベランダにやってきたものだから、手持ち無沙汰に手すりを撫でることしかできない。耳を澄ませば閉じられたガラス戸の向こうから双子の声が聞こえる。
 英知の隣で同じように手持ち無沙汰にしていた柊羽が幸せか、と呟いた。
 ぬるい風に当たりながら、隣にいる柊羽の気配とガラス戸の向こうにいる双子の賑やかな声とどこか遠くから聞こえる都内の喧騒に耳を傾ける。それはどこか柊羽が英知の為に作ってくれた歌のようだった。目を閉じればそれはより一層英知の中で響き渡る。柊羽が水を与え続けた花達は、今こうして美しく花を咲かせて小さな花束達になったのだ。
「きっと、幸せというのは今のことを言うんだろうな」
 ゆっくりと柊羽の右肩が英知の左肩へと体重をかける。柊羽の重みを感じながらそっと目を開ければ空にはやはり大きな白い雲が広がっていた。からりと晴れた今夜はきっと月が良く見える。双子はさぞかし喜ぶだろう。
 このまま時が止まればいいのに。今この瞬間で全ての時間を止めたいわけではなく、この時間がいつまでも続けばと、そう願う。明日も明後日もその先もこうして穏やかな時間が続けばいいと願うのだ。そう簡単に上手くはいかないのだろうけれど、それらを乗り越えた先でひとつの笑い話として語れたら、それはとても素敵なことだ。
幸せとは、今この時間を指すのだ。

畳む

編集

情けない話は花火の向こうへ
柊英です


 誰かと花火を見るのは随分と久しぶりだった。見ることはあってもテレビの画面越しや、仕事の撮影で見ることばかりで親しい人と見るなんてことはなかった。だから少しだけ浮かれているし、我儘にだってなる。
 地面が揺れるような音と、それから少し遅れて小さな光が夜空へと上がっていく。柊羽と英知がいる場所から少し離れた所で行われている夏祭りの喧騒が、次の瞬間轟いた光の弾ける音でかき消される。ぱっと広がり形を作る光に、英知が小さく声を上げた。きらきらと光が夜空へ溶け込むように消えていく。たった一瞬の美しさに、英知の瞳が瞬く。大きい瞳は簡単に空に散る光を集めてきらきらと瞬いて、そこに星を住まわしていく。それに僅かばかり嫉妬してしまう自分は、さぞかし狭量な男なのだろう。気がつけば柊羽の視線は打ち上げられる花火ではなく、それを見つめる英知にだけ向けられていた。
「…柊羽」
「どうした」
「そんなに見られたら気になりますって」
 淡々と打ち上げられていた花火が、一瞬止まる。再び少しずつ聞こえてきた祭りの喧騒に、英知の視線がやっとこちらへ向く。
「すまない。少し妬けてしまって」
 英知が丸い目をいくつか瞬きさせて、それから首を傾げる。その後に続いた、何に?という言葉は柊羽が答える前に再び始まった轟きに飲み込まれてしまった。きっとこれが最後の打ち上げ花火なのだろう。先程とは打って変わって一斉に絶え間なく地面が揺れては轟音に続いて夜空に光の点が登っていく。空が明るくなって、いくつもの光が一瞬の輝きでもって夜空を彩る。ああ、きっとこれは、神様からかっこ悪い嫉妬なんてしているなというお告げなのだろう。
 一斉に始まった花火は、そう長くは続かず最後に1番大きなものを打ち上げて終わった。雲のように流れる火薬の煙が夏の終わりを知らせるようだった。
「柊羽、さっきの妬けたって?」
「…なんでもない。忘れてくれ」

畳む

編集

いま、愛の話をしよう
柊英です


 ぱちりとキッチンの電気を消して。揃いのマグカップにほんの少しはちみつを垂らしたホットミルク。それを柊羽に渡しながら向かいに腰掛ければありがとうと返される。英知と柊羽しかいない共有ルームはダイニングテーブルがある場所だけ明かりを灯されて薄暗い。とっくに壱星と壱流ははしゃぎ疲れて眠ってしまったから、余計に明かりの下にあるテーブルは2人のために切り取られたようだった。
 英知が寝込んだことでずれ込んだSolidSとの打ち上げが行われたのは熱が下がってから数日後の今日だった。どこか特別な場所に行くでもなく、お互いに食べ物やら酒やらを持ち寄ってSolidSの共有ルームにおじゃましての打ち上げ。随分とはしゃいでしまったからきっと壱星も壱流も起き出してくることはないだろう。
「疲れてるのにごめんね?」
「構わないさ。さっきまであれだけ騒いだんだ、まだ眠れそうにない」
「そっか」
 暖かいマグを両手で包み込んだまま少し視線を彷徨わせる。柊羽のことだから英知が何を伝えたくてこんな時間にホットミルクを入れたのか分かっているに違いないのだ。柊羽は英知が泣いた理由を察しているのだから。だからといって柊羽に促されるのを待っていてはいけないのだけど。1口含んだホットミルクは優しい甘さで英知の背中を押す。
 きっと気付いてると思うけどさぁ、そう前置きを1つ。
「QUELLになれて、本当によかったって思ってるよ」
 あれから数日経った。気が付けば今まで通りの日常が戻ってこようとしていて、英知も柊羽もそれこそ壱星に壱流も仕事へと再び駆け出した。それでも毎晩眠るために瞼を下ろすと真っ暗な視界いっぱいに美しいイエローグリーンのサインライトの灯りが英知を照らすのだ。360度、全ての視界が英知の瞳の色で埋め尽くされたあの空間が忘れられない。あの時間が、瞬間が忘れられない。柊羽が英知のために作った宝物のような歌を、壱星と壱流が褒めてくれた英知の歌声で、あの場で歌えたことはきっとどんな言葉でも表せない幸せだ。きっかけなんて今は小さなことで、英知は心の底からこの3人と一緒に同じ場所に立てて良かったと思うのだ。
「どんなにありがとうって言っても言い足りないくらい、本当にQUELLにしてくれてありがとうって思ってるんだ」
 あの日涙に溺れてしまった言葉をゆっくりと紡いでいけば、目の前の柊羽が驚いたように目を開いて英知を見た。ユニットに入ることになったきっかけは壱流だったけれど、最初にマネージャーとして誘ったときはあんなに強引だったというのに。この寮に越してきた時に似たようなことを言った時だってこんな顔はしなかったのに、目の前の柊羽はあんまりにも驚いた顔をしていて。
 改まって感謝を伝えることは少し気恥しい。けれど大事なことだ。ホットミルクをもう1口飲んで、白熱灯に照らされる柊羽の綺麗な瞳を見つめる。一体どれだけこの奇跡に感謝すればいいのか分かりやしない。
「柊羽に、イッセーにイッチーに出会えて4人でいられて本当に幸せだよ、俺。…あの時泣いちゃったのはそういうこと。ありがとうって」
 最後にそう付け加えれば柊羽は視線をテーブルへと落とした。頬に長い睫毛の影が落ちる。
「……ありがとう、」
 穏やかに微笑みながらそう言った柊羽の唇は少しだけ震えていた。それから瞬きと同時に音もなく静かに涙が落ちて、柊羽のマグカップへと落ちる。それは途切れることなくいくつもいくつも静かに落ちていく。どうしたの、なんて声を掛けられやしなかった。柊羽の言葉を待たなくてはいけない気がしたのだ。
 やがて情けないな、とそう言って柊羽がそっと手のひらで目元を隠してしまう。
「情けなくなんてないよ」
「いや、情けないさ。…やっと、安心したんだからな」
「…安心?」
 柊羽の手の隙間からはらりと涙が零れていく。そんなんじゃあせっかくのはちみつを入れたホットミルクが塩辛くなってしまう。そんなことを思った。
「英知から、QUELLでよかったと聞いて、安心したんだ」
「…そんなの、当たり前じゃない」
「それでも、英知は優しいから不安だったんだよ」
 きっかけがきっかけだろう、そう言う柊羽の声は随分と小さかった。
「いくら俺が優しくても、優しさだけで大好きな仕事を辞めてまで柊羽についてこないよ」
 他人への優しさだけで天職だとまで思っていた仕事を辞めたりなんかしない。柊羽でなければどんなに魅力的な仕事だろうと英知はADという仕事を選んでいたに違いなかった。けれどそれは今日までの英知がどんなに言い聞かせたって完璧には納得しなかったのだろう。だからこそ、寮に来たばかりに同じような事を言った時、柊羽はこんな顔をしなかった。頭じゃ分かっていても、心ばっかりはそう上手くいかない。理屈や理論じゃどうにもならないのだ。
 目元を隠している柊羽の手を取る。零れすぎた涙でしっとりと濡れているのも構わずその手を握る。柊羽の涙がその不安をホットミルクに落としてくれているように、あの日英知が流した涙が柊羽の中の不安を少しずつ溶かしていたのだ。言葉だけじゃあ足りないものを、今こうしてお互いの涙が教えてくれる。
「柊羽だから、柊羽じゃなきゃ、俺はついてこなかったよ。俺の為に仕事を辞めてくれってプロポーズしたんだよ?もっと自信持ってよ、リーダー」
「…英知には敵わないな」
 いくつも落ちていた涙は気が付けば止まっていて、それは柊羽の中で抱えていたものを溶かし切った証明だった。それに安堵して手を離そうとした英知の手をそっと握り返した柊羽は、赤くなった目尻で少し眉を下げて笑った。今度こそどうしたのと聞けばすまないと1つ謝罪の言葉。
「英知の優しさに、自惚れてしまいそうだ」
「……そんなの、」
 この時零れ落ちた言葉は脳を通さずそのまま心の声が溢れたもので、言ってからその意味に気付く。その意味が分からないほどもう英知は子供ではなかったのだけど、その言葉の意味を理解したまま言葉を重ねる。すっかりホットミルクのことは頭から抜けていた。暗闇から切り取られたダイニングテーブルの上でゆっくりと温度を下げていくマグカップの中身とは反対に、お互いの手のひらは温度を上げていく。
「俺だって、一緒だよ」

____

 
 スタジオの中を駆け回る数多のスタッフの中で頭1つ飛び出た長身、駆け回る度に揺れる茶髪はよく目に入った。誰かに呼ばれる度に明るく返事を返してはそちらに向かってまた駆けて行くその姿を、忙しそうだとどこか他人事に考える自分と、そんな彼のことを随分と楽しそうだと思って見ている自分がいた。あれだけあちこちに奔走していては疲れるだろうに、額にうっすら汗を滲ませていたって疲れた顔1つしない。それどころか彼が駆けつけた先はどこか陽が射したように明るくなった気さえするのだ。その英知の姿に柊羽はフィクションの中でしか見たことの無い一目惚れというものをしたのだと、今なら言える。
 いつだかに柊羽が所属していたユニットが出演した音楽番組。それに同じく出演していた海外の女性歌手。力強いながらも美しく繊細な歌声は柊羽も随分と気に入っていて、移動車の中でもよく聴いていた。その彼女を舞台袖からじっと見つめて聴き入っている横顔に、今がチャンスなのだと思ったのをよく覚えている。ステージを照らす照明の強い灯りが、舞台袖にいる英知の瞳にも反射して瞬いていた。それにまたひとつ恋をしたのだけど、きっと英知は知らない。「とても、いい歌ですよね」柊羽がそう声を掛けた時、振り向いた英知はひどく驚いた顔をしていた。まさかあの和泉柊羽が、そう顔に書いてあるのではないかと思うほどに。その時初めて近くで、正面から英知の顔を見てそこでやっと彼はとても美しいイエローグリーンの瞳をしているのだと知ったのだ。
 あの時、彼女が歌っていたのは日本語版のタイトルで、

____

「いま、愛の話をしよう」
 英知の言葉に驚いたように柊羽の手のひらが1つ震えた。今夜は随分と柊羽を驚かせてばかりだ。もしかしたら瞳がぽろりと落ちてしまうかもしれない、その時はちゃんと拾ってあげないと。そんなことを考える。
「俺さぁ、この歌すごく好きなんだ。それに何かと柊羽と縁もあってね。初めて柊羽が声を掛けてくれた時に1番近くで流れてたし、俺が柊羽のことを好きになった時にも1番近くで流れてた」
 びっくりしすぎだよ、柊羽の顔を見てそう笑う。
 柊羽に初めて声をかけられた時、まさかあの和泉柊羽が、そう思ったのをよく覚えている。ただのスタッフに声を掛けてくる人には思わなかったし、自分が声を掛けられるとも思っていなかったのだ。あんまりにもびっくりしたものだからあの時の自分が柊羽になんて言葉を返したのかも覚えていない。ただ、初めて近くで見た柊羽の瞳はあんまりにも綺麗で澄んだ水のようだと思ったのはやけに覚えていた。
「いつから、」
「ん?」
「いつから、好きになってくれたんだ」
 英知の手を握る柊羽の手に僅かに力が込められる。ああ今夜はなんて珍しい柊羽の姿ばかり見る日だろうか。英知が少しの緊張と気恥しさと共に昔話をしているように、彼も同じように少しの緊張と気恥しさを抱えながら英知の話を聞いているのだ。
「柊羽が初めて約束に遅刻した日」
 親しくなって半年程経った日の冬だった。柊羽が予約してくれていた英知だけじゃとても行かないようなレストラン。そこに向かう道すがらに届いた、仕事が押してしまって遅れるから先に入っていてほしいというメッセージ。この時の英知はまだあの和泉柊羽と自分が友人だということにまだ少し気持ちがついてこず、どこかふわふわとした気持ちでいた。ただのスタッフでしかない自分が彼と友人であるということに対する優越感のようなものを感じながらも、同時に気まぐれで声を掛けられただけの、その場だけの1人なのだろうという気持ちを抱えながら。スタジオで自分を見つけては何かと声を掛けてくれて、時折メッセージなんかも寄越してくれて、時間が合えば食事にも誘ってくれる。そこに特別を見出すだけの自惚れは持ち合わせていなかった。けれど初めて待ち合わせに遅れてやってきた柊羽の姿に英知の中で気持ちが変わったのだ。
「あの時、すっごい急いで来てくれたでしょ。冬なのに汗かくくらい必死になって、急いで来てくれてさ。…だからちょっとだけ、俺って柊羽にとってそれだけの人なのかなって、思っちゃった」
 肩で息をして、遅れたことを詫びる言葉すら途切れ途切れで。別にそんなに急がなくたって英知はどこかに行ったりしないのに、その必死な姿がどうしようもなく愛おしいと思ってしまった。あの和泉柊羽が、ただのスタッフの1人でしかない自分のためにこうも必死になってくれたことがどうしようもなく嬉しいと思ってしまったのだ。あの時、英知は自分がこの男の特別であったらどんなに嬉しいことかと思い、笑われたっていいから自分は彼の特別なのかもしれないなんて自惚れを感じたのだ。あの時に店内で流れていたのは偶然にも柊羽が初めて声を掛けた時と同じ、彼女の歌だった。
 彼女は去年歌手を引退した。結婚を期に引退した彼女はインタビュアーにどうして引退するのかと聞かれてこう答えた。私はたった一人の愛を語る相手を見つけたの、と。
「ずっと特別だったに決まってるじゃないか」
「今なら分かるけどね。流石に当時の俺じゃそうは思えなかったよ」
 柊羽の手に込められていた力が緩められて、優しく指を絡めるように繋がれる。それに応えるように英知からも指を絡ませる。気が付けばお互いの熱を分け合った手のひらは溶け合うように同じ温度になっていた。
 かたや誰もが知っている有名人、かたやただのAD。生きている場所すら違いすぎて自分が柊羽の特別だったらなんて思い込むことは出来ても信じることは出来やしなかった。これもきっと、今日までの柊羽がどんなに英知に言い聞かせたって納得なんてしやしなかったのだろう。今この瞬間、積み重ねてきた時間があるからこそ、信じることが出来るのだ。
「今は、ちゃんと英知に伝わっているか?」
「そりゃもう、勘弁してってくらいに」
「それはよかった。頑張った甲斐があったな」
 美しい水色の瞳が英知を映していた。ようやっと柊羽の瞳に込められた意味を素直に受け止めて受け入れることができる。きっと今の自分も同じように堪えきれない想いが乗っかっているのだろう。
「そういえば話が脱線しちゃったね。…ねぇ、俺も柊羽の気持ちに自惚れていいかな」
 柊羽が肩を揺らして当たり前だろうと笑う。それに良かったと笑えば繋いでいない方の手がそっと英知に伸びる。頬を滑る柊羽の手のひらに目を細めれば頭の片隅に彼女の歌が流れ出す。きっと柊羽の頭でも同じように彼女の歌が流れているのだろう。マグカップの中のホットミルクはもうとっくに冷め切っていて、けれど今の英知には丁度いいに違いない。
 いま、愛の話をしよう。そうして愛を語り合ったら最後はそっとキスをしよう。彼女は最後にそう歌っていた。

 
畳む

編集

星の原
柊英です

星の原

 ユニットとしては先輩である大がステージの上で歌っている。その歌声に聞き惚れながらも足が竦む。この歌が終わったら入れ替わるようにしてステージへと向かわねばならない。果たして自分は彼のように堂々とステージに立ち歌うことができるだろうか。舞台袖に聴こえる歌声に、マイクを持つ手が震えた。
 やがて曲が終わり、ステージに歓声が響く。
「…よし」
 それを聴いて、竦む足を叱咤して壇上へと続く階段を上がっていく。英知と入れ違うように僅かに額に汗を滲ませた大が降りてきた。次の曲までそう時間もない中で、大が英知の顔を見て小さく笑った。
「大丈夫。行ってみたら、ステージって案外怖くない」
 

 曲が終わり、ふと視界を持ち上げた時、きらきらと世界が瞬いていた。イエローグリーンのペンライトが夜闇に散りばめられた星々の様で、宝石のようで、その美しさに息を飲む。今、この光は英知の為に光り輝き英知を讃えている。大袈裟な仕草で頭を下げて、ありがとうございましたと言った声はきっと震えていた。広い会場からちらほらとざわめく声が聞こえたから。
 柊羽が作ってくれた、英知の為の歌。QUELLというこの場所を家族のように想っている、それを美しく形にしてくれた歌だ。みんなの様に上手く歌えた自信なんてない。声は裏返ってしまったしリズムだって崩れてたに違いない。それでも歌っていたあの瞬間は誰よりも1番楽しい幸せな時間であったのは確かだ。壇上に立ちイントロが流れてからの記憶は緊張も相まってどこかふわふわとしていてはっきりしないけれど、それだけは分かる。柊羽が作った、このQUELLという家族を想う、英知のための歌。ああ、と大きく息を吸う。もう一度頭を上げた時に未だに広がっていたイエローグリーンの世界が滲む。もう一度頭を下げて舞台袖に下がる足取りだって少し震えていた。
 次にソロを歌う壱流が英知と入れ替わるようにステージへと消えていく。その背中を見送る余裕すらなかった。英知の背後でわぁっと歓声が上がる。やがて流れ始めるイントロ、そこに重なる壱流の歌声。
「英知」
 優しい声が壱流の伸びやかな歌声の合間を縫って英知の耳へと届く。どこか呆然とした頭で見遣ればそこには柊羽が立っていた。きっと、英知のステージを見ていたのだ。視界がどうしようもなく滲んで、息を吸い込む、それすら震えてしまった。きらきらと世界が瞬いていた。イエローグリーンの美しい星々が英知を讃えていた。堀宮英知という人間を、確かに受け入れ認め、見つめていた。QUELLの堀宮英知として、柊羽や壱星や壱流からではない数多の人からやっと認めてもらったような気すらした。なんて美しい光景だっただろう、QUELLの堀宮英知だけが見ることの許された星の原は。
 柊羽、と名前を呼ぶ声は形にならなかった。壱流のソロが終わったら次はSolidSが歌う。その僅かな時間に少しくらい泣いてもいいだろうか。本当は泣いている場合なんかじゃあないのだけど、それでもどうしようもなかった。覚束ない足取りで両手を広げた柊羽の腕の中に収まれば壱流の歌声がすっと遠のく。
「英知、英知。本当にお疲れ様。本当に素晴らしいステージだったよ」
 何度も自分の名前を呼ぶ柊羽の声は酷く優しい。ああ、QUELLになれて良かったとこんなにも心の底から思っているのに声になんてなりやしない。ただただ柊羽を抱きしめ返す腕に力だけが込められる。この腕で柊羽にたくさんの感謝が伝わっていれば、いいのだけど。
 瞼の裏で、世界で1番美しい星の原が広がっていた。英知だけが見ることの許された、英知だけの美しさだ。

畳む

編集

俺が仕事始めするまでが三が日だ
20260104191130-tomato.png

編集

トップだけ変えてあげるの忘れてた

編集

正月
20260101111843-tomato.png

編集

2025年12月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

可愛い〜(自画自賛)

編集

💕
20251231031611-tomato.png

編集

おめでとう。大好き
20251222220743-tomato.png


共に過ごすということ

 任務で赴いた先の駅前でクリスマスマーケットをやっていたと伏黒が言っていたのが先月のこと。それもうクリスマスでもなんでもないじゃんと五条が言ったのも先月のこと。
 そして2人で住む場所からそう遠くない所でクリスマスマーケットがやっているから行きたいと伏黒が言い出したのが、22日の朝のこと。
 五条にそれを告げてから任務へと向かった伏黒が帰宅したのは、昼を過ぎて夕方になった頃だった。せっかくの誕生日なんだから休めばいいのに、とは言えない。五条がいなくなった穴の大きさは、五条自身もよく理解していたから。
五条悟は表向きは死んだことになっている。生きていることを知っているのは、伏黒を含めた一部の関係者だけ。奇跡的に一命を取り留めたものの、身体は動いても以前ほどの精度で術式を扱うことが難しくなったのだ。ただでさえ扱いが難しく、1歩間違えれば大惨事を引き起こしてもおかしくない力。逞しく育った教え子たちに先のことは任せて、五条悟は死んだことにして隠居生活を決めたのだった。
 隠居生活を始めてから伏黒と一緒に暮らすようになって、同じ屋根の下で彼の誕生日を祝うのもそろそろ片手じゃ足りなくなる。毎年この時期は宿儺との戦いの記憶も新しく、呪いが増え、術師たちが忙しくなる。だから伏黒がこの日に任務に赴くのは仕方ないのないことだが、きっと負い目もあるのだ。それにだって、気にしなくていいんだよ、だなんて五条にはとても言えなかった。お互い口には出さないけれど、苦い思い出ばかり蘇る。

 1駅先にある大きな公園でクリスマスマーケットはやっているらしく、2人並んで徒歩で向かう。すっかり空は暗く、吐き出す息は白くて伏黒の鼻の頭は赤くなっていた。今日の任務での話を聞きながら歩いていれば1駅なんてあっという間。やがて人々の賑わいと電飾でやけに明るくなった一角が見えてくる。
「結構賑わってるじゃん」
「ですね」
 クリスマスマーケットと言えどもそう大々的に告知しているような規模ではない。それでもぼんやりしていたら離れ離れになってしまいそうなくらいには人が集まっていた。クリスマスにはまだ少し早いけれど、イベントは楽しんだ者勝ちだ。
 人の流れに混ざって、入口でマグカップを購入する。赤と緑と、可愛いトナカイのイラストが付いたそれを片手に公園内へと1歩踏み込むと一番に目につくのは中央にある大きなツリー。電飾で形作られたそれは、一等きらきらと輝いていた。
「……つか、顔隠さなくていいんですか」
 ツリーを眺めていると、伏黒が五条の腕をつついてくる。確かに今日の五条はサングラスしかしていなかった。
「別にいいでしょ。僕が実は生きてることなんて、本当はとっくにバレてるし」
「…でも」
 五条悟は死んだことになっているが、実のところ生きていることはとっくの昔に知れ渡っている。耳の早い呪詛師たちに知られれば、他の術師たちにも話が行くのは早かった。公然の秘密というやつだ。けれど、以前のように扱えないとはいえ術式は死んだわけでもないし、衰えたところはあっても培った戦いの技術は残されている。そうそう命を奪いに来る無謀な者はいないし、なによりも。
「なんかあっても恵がどうにかしてくれるでしょ」
 五条の言葉に、むっと口を尖らせたのは照れ隠しだ。今の五条にはとっても頼りになる用心棒がいる。そう心配するようなことはない。
 ツリーの前から離れて、マグカップを受け取った時に貰ったマップを一緒に覗き込む。雑貨を扱う店から、食事を提供しているキッチンカー、フォトスポット。一頻り目を通してから、伏黒が指を指したのは入口から1番近い出店だった。
「俺、ここ行きたいです」
「いいけど、何目当て?」
「ホットワイン」
 思わず伏黒の顔を見る。ああ、そういえば今日で彼は20歳になったのだと、思い出す。あんなに小さかった子供は、酒が飲める歳になったのだと。
「…ん、分かった」
「一応身分証持ってきました」
「飲む気満々じゃん」

 少し並んで、購入したマグカップに伏黒はホットワイン、五条はココアを注いでもらう。ついでにソーセージの盛り合わせも買った。ベンチは殆ど埋まっていたから、隅っこで立ったまま飲むことにする。
 別に自分が飲む訳でもないのに、どこか緊張しているのは伏黒に酒のイメージがないからだ。大人になった証。子供じゃなくなった証。嬉しいはずなのに、どこか寂しい。
 恐る恐ると言った様子でそっとマグカップに口をつけて、1口。こくりと伏黒の喉仏が上下するのを見ていると、気まずそうにこちらを見た。
「…そんなに見られたら飲みにくいんすけど」
「や、なんか、慣れなくて」
「何が」
「恵がお酒飲んでるのが」
「そりゃ、今日が初めてですからね」
 でもこれから見慣れるかもしれませんよ。そう言ってもう一口。
 人々の賑わいをBGMに大きなツリーとそれと出店を繋ぐ電飾の光を見つめる。五条はこういうイベントで賑わっている空間が存外好きだ。意味もなく散財して、色んなものを食べて飲んで、浮かれて。そういう非日常が好きだ。けれど伏黒はそうじゃない。むしろ苦手な筈だ。五条が誘って渋々着いてくるならまだしも、自分から行きたいなんて普段なら言うはずもない。ましてや、この時期になんて、尚のこと。
「…五条さん、好きでしょう」
 徐に伏黒が口を開く。
 視線はマグカップに落として、口元に小さな笑みを浮かべて。
「イベント空間が?」
「そう。こういう人でごった返してて、賑やかなの」
「恵は好きじゃないよね」
「そうですね。普段なら行きたいなんて思わないんですけど」
「誕生日なのに」
「だからですよ」
 顔を上げた伏黒が、緩く目を細めて五条を見る。瞳にきらきらと電飾が反射していた。
「誕生日だから、あんたの楽しそうな顔が見たくて」
 毎年、伏黒はこの時期になると連日任務を入れて日付が変わる少し前にやっと帰ってくる。疲れきった顔で、ふらふらと帰ってきては起きて待っている五条にくっついて離れようとしない。何を言うわけでもなく、ただ離れようとしないのだ。誕生日に何か欲しいものがないのか聞いても特に無いと言うのはいつものこと。けれど、誕生日に限らず今の伏黒は欲しがること自体を避けているようだった。なのに。
「…ふは、変な顔」
 言葉に詰まる五条に、伏黒が目尻を柔らかく下げる。電飾の明かりの中でも、伏黒の頬が赤く見えるのは気のせいか。
上手く言葉が紡げない五条を置いて、伏黒がぽつりぽつりと言葉を落としていく。独り言のようにも聞こえるそれは、しかし五条に語りかけていた。
「20歳になって、ちゃんと覚悟決めないとなって思って。俺のしたことが許されるとは思ってないですし、一生かけて償わないといけないことだとも思ってます。でも、…あんたと、五条さんと一生一緒にいる覚悟は、幸せにする覚悟は、ちゃんと決めないとなって」
 今日は誰の誕生日だったっけ、そんなことを思う。今日は五条の記念日じゃなくて、伏黒の記念日のはずなのにどうして五条を喜ばせるようなことを言うのだろう。本当なら五条が誰よりも伏黒のことを祝ってあげないといけないのに。生まれてくれたことにありがとうを伝えて、出会ってくれたことに喜びを伝えて、一緒にいる奇跡に祈りを捧げるべきだ。だというのに。
「…なんで僕がプレゼント貰ってんのさ」
 サンタさんにはまだ早いよ。そう続けた声は随分とかすれてしまった。でも伏黒にはちゃんと聞こえたはずだ。どんな人混みの中であっても五条には伏黒の声が聞こえるように、伏黒にだって五条の声はよく届くはずだから。
 五条のマグカップの中身は全然減っていないのに、伏黒のカップの中身はあと少しになっていた。頬が赤いのは、初めてのアルコールのせいか、一足早いサンタさんのせいか。
「貰ってるのはこっちですよ」
 伏黒の瞳が、一層きらきらと光る。
「あんたが生きてるって知ってから、毎日がプレゼントみたいなもんですから」
 歳は取りたくない。涙脆くなって仕方ない。ず、と鼻をすすってしまって情けない。情けないけれど、今日だけは許してほしい。
「酒の力ってこわぁ…」
 五条の情けない照れ隠しに、伏黒はとうとう声を上げて小さく笑った。
畳む

小説, 編集

はじめての
付き合ってまだそんなに長くない頃


 今の僕は、まさしく鳩が豆鉄砲の顔をしている。
 リビングから廊下に繋がる扉の前で真っ赤っかな顔をして立つ恵は、ロング丈の寝巻き用のシャツしか着ていなかったのだ。着ているのは本当にシャツだけで素肌を晒した足が少し寒そうだったけれど、始めて見る恵のそんな姿に僕は言葉を失っていた。どうしたのとか、寒そうだけどとか、もしかしてとか、色んな言葉が頭の中で浮かんでは消えて、そうしてやっと飛び出したのは抑えきれない笑い声だった。
「っ、ふ、…ははっ!もう、なんなのお前!育てた僕でも予想できないようなことして!驚かせてくれるじゃん!」
 恵が静かに「お風呂いただきます」と告げてリビングから消えて1時間弱。普段の恵からしたらありえない長さだったが、ソファで次の任務資料を眺めていた僕は深く考えていなかった。 そんな恵が、真っ赤っかな顔で生脚を晒して僕の前に立っている。扉を開けて「五条さん」と僕を呼んだ時の消え入りそうな声といったら!ここまでされて恵の意図に気付かないほど僕は鈍くない。
「…なんか、すみませんでした」
「ちが…、待って待って!そうじゃなくて!」
 あんまりにも僕が笑うもんだから馬鹿にされたと思った恵が、真っ赤な顔のままムスッとして再び廊下に消えそうになる。不器用な恵が頑張って僕を誘ってくれたのだ。馬鹿になんてするわけがない。だってあのちいさな「五条さん」の後には「今夜どうですか」って続けたかったに違いなくて、ただそれを言うところまで恵の勇気はちょっと足りなかっただけで。
 慌ててソファから立ち上がり風呂場にUターンしそうな恵の腕を取る。顔は真っ赤でもその手は冷たい。恵からえっちに誘うなんて初めてだし、こんな格好を自分からするのも初めての筈だから本当は緊張していたのだろう。
 不器用で、愛らしくて、いじらしくて仕方ない。
「………」
 目を合わせられない恵が、ふいと顔ごと目線を逸らす。
「本当に違くてさ。すっごい嬉しいの」
「…爆笑してましたけど」
「だって恵が豆粒みたいにちっちゃい頃から面倒見てて、とっくに色んなこと知ってて、恵が考える大体のことも想像がつくのにさ、これは予想外だったから」
「…豆粒じゃない」
 突っ込むところはそこじゃないのは恵だって分かってるだろうに、素直じゃない。また笑いそうになるけど今度は堪えた。
 掴んだ恵の腕をそっと離してから、どこかに行ってしまう前に手のひらと手のひらで繋ぎ直す。
「まだまだ恵の知らないところがあって、予想もしないようなことで驚かせてくれて、喜ばせてくれて、嬉しいに決まってるじゃん」
 恵の好きな味付けも知ってるし、当然好みの本や映画、服も知ってる。靴を履く時は必ず右足からだし、つむじは左巻き。恵の身体のことだって、まだ勉強中だけど既に本人よりは知ってるつもりだ。どこをどうされるのが弱いとか。しかしそれでも、世の中知らないことばっかりだ。風呂が長かったのは多分準備してたからで、脚を出してるのはきっと脱がせる手間と分かりやすさを考えてのこと。
 新しく記憶してからまだそっぽを向いてる恵の顔を覗き込んで、繋いだ手を揺らす。
「ね、「五条さん」の続きは?」
 続く言葉は今夜どうですか、だと僕は予想してるけれど何が飛び出してくるのか。わくわくしながら待つ。
 けど、何が飛び出しても、僕の返答はもう決まってる。
畳む

小説 編集

貝柱色
20251215014616-tomato.png

編集

2025年11月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

冬の昼寝はちゃんと布団をかけよう
20251130202043-tomato.png

うたた寝、冷めたコーヒー

「へくちっ」
 そんな可愛いくしゃみが聞こえて思わず目線を下へ向けた。今いる場所はベッドの上、そして目線は下に、つまりは僕の胸元だ。僕の胸元で恵がくしゃみをした。
 眉間に小さく皺を寄せて、口元をもごもごも動かしてむずがっている。寝ながら寒そうに身を寄せてくる様子に、そういえばベッドにシーツを敷きながら寝ちゃったんだったと思い出す。
 今日は天気が良かったからシーツを外で干して、その干したてのシーツをベッドに敷いていたら恵がやってきたもんだから腕を掴んでベッドに転がして、せっかくの乾いたばっかりのシーツをしわくちゃにしながらいちゃいちゃして、気が付いたら寝ていた。このいちゃいちゃは決していやらしいいちゃいちゃじゃない。ただひっついてキスをして、そんな可愛らしいものだ。誰に言い訳するでもなく僕達は健全なことをベッドでしましたよ、と心の中でごちる。
「めぐみー」
「…ん…」
 そういう訳だから部屋着のまま布団をかけずに寝てしまって、寒いのが苦手な恵が可愛いくしゃみをしたのが今さっき。裏起毛のスウェットに体温の高い僕にひっついていても、もうじき12月の気温の前には足りるはずもない。
 くしゃみをしても尚、眠そうにしている恵の頬をつつく。さっきと同じように口元をもごもご動かして、ゆっくりと瞼を持ち上げた恵は少しだけ不機嫌そうだ。といっても寝起きの恵はいつもこんな顔だ。本当に不機嫌なわけじゃない。
「おはよ。体冷えちゃったね」
「……はよ、ごさいます」
 寝起きの掠れた声で挨拶をしながら僕の胸元に擦り寄ってくるが、たぶんこれは二度寝の体制に入ろうとしている。ちょうどいいおやすみポジションを探しているのだ。
「ねぇ、なんかあったかいの飲もうよ。また寝たら風邪ひくよ」
「俺、コーヒー用意しましたよ」
「知らないんだけど」
「…言う前にベッドに引きずり込んできたんでしょう」
「言えばよかったじゃん。恵ったら僕とベッドの誘惑に弱すぎ」
「あんた程じゃない」
 僕から引き剥がされた恵は口を尖らせる。やっと二度寝を諦めた恵をベッドから起こしてから、床に足を下ろしたらフローリングはすっかり冬になっていた。そう長く寝てはいない筈だけど、恵が用意してくれたコーヒーが冷めるには十分な時間は経っているだろう。レンチンでもして温め直している間に、この間スーパーで安くなっていた1口和菓子の詰め合わせでも開けようかな。
 そんなことを考えていたら、僕に続いてフローリングに足を下ろした恵がもう一度くしゃみをした。


畳む

小説, 編集

Powered by てがろぐ Ver 4.2.0.